与謝野晶子の「女らしさ」とは何か、を読んだ。これは1921年に書かれたエッセイで、恋人の日本語の練習のために青空文庫で本を探しているときに見つけた(ちなみに恋人とは「ごん狐」を読んでいる)。少し長いが、書き出しから非常に痛快なので見てほしい:
日本人は早く仏教に由って「無常迅速の世の中」と教えられ、儒教に由って「日に新たにしてまた日に新たなり」ということを学びながら、それを小乗的悲観の意味にばかり解釈して来たために、「万流流転」が人生の「常住の相」であるという大乗的楽観に立つことが出来ず、現代に入って、舶載の学問芸術のお蔭で「流動進化」の思想と触れるに到っても、動もすれば、新しい現代の生活を呪詛して、黴の生えた因習思想を維持しようとする人たちを見受けます。たとえていうなら、その人たちは後ろばかりを見ている人たちで、現実を正視することに怠惰であると共に、未来を透察することにも臆病であるのです。
「女らしさ」とは何か, 与謝野晶子
当時、女子解放運動を「女子の中性化」と揶揄する動きが盛んにあったようで、これはそれに対する抗議として書かれた文章らしい。
そもそも社会制度的に女子を教育から締め出し挑戦の機会すら奪っておきながら、教育を受けさせたところで「『女らしさ』というものを失って、女ともつかず、男ともつかない中間性の変態的な人間が出来上がるから宜しくない」と早くもその結果を否定するのは憶断も甚だしい、と彼女は言う。
それに続き、「女らしさ」が女性の至上価値となってしまっており、「女らしさ」を欠けば他にどのような優れた性質があろうともその女子の人間的価値がゼロとされてしまうことへの疑問が呈されている。
そして、妊娠以外には男女間の分業の領域は流動的であること、愛や優雅やつつましやかさといったものは女子だけでなく人間全体に共通して欠くことのできない人間性そのものであること、無常・冷酷・生意気・粗野などの特徴は男子においても許し難い欠点であること、などについての言及がある。
なかでもとりわけ、百年経っても同じ議論が続いていると思ったのは、妊娠にまつわる話だった。妊娠できるのは女子だけ、というのは間違いないが、妊娠に至るには男子の協力が不可欠なうえ、子育ては二人の愛と知性と労働が合わさって初めて可能になるのに、社会はこれまで母性に不当に重荷を課して来た、従来あまりに父性がないがしろにされて来た、というのだ。父性と母性の両方に子育ての責任を分担することへの強調が、百年経っても未だに日本で必要とされていることに、悲しみを禁じ得ない。
女は妊娠出産を経て一人前、というような、時代錯誤も甚だしい概念を政治家が口にしているのを見かけるたび、事の深刻さにため息が出るのだが、百年前は今よりもっと状況が酷かったのだろう。与謝野晶子は、女がそうなら男だって子供がいない男は一人前じゃないはず(なのにそう言われないのはどうして?)、実際は結婚しても様々な理由で子どものいない人はたくさんいる、結婚はしてもしなくても良い、こどもも作っても作らなくても良いのだ、男子も女子も適材適所が望ましい、個人の自由意志に任せるべきだ、そして私は結婚もしない子どもも作らない人たちが人類の中に「まじっている」ことを望ましいこととして肯定する、と言っている。
「女らしさ」という言葉から解放されることは、女子が機械性から人間性に目覚めることです。人形から人間に帰ることです。もしこれを論者が「女子の中性化」と呼ぶなら、私たちはむしろそれを名誉して甘受しても好いと思います。
「女らしさ」とは何か, 与謝野晶子
明るみにでた医学部入試差別のような件があるとは言え、日本は百年前よりは女性が随分と生きやすい社会になったと思う。与謝野晶子については高校の授業を通じて名前や短歌を知っているくらいで、彼女の書いたエッセイを読むのはこれが初めてだと思うのだが、もっと早くに読みたかったなと思う。
百年というと、うんと昔のことに感じられるけれど、そう言えばミルのThe Subjection of Womenはもっと昔(1869年)に刊行されているし、人々の意識を変えるには百年くらい時間がかかるのかもしれない。