• 与謝野晶子の「女らしさ」とは何か、を読んだ。これは1921年に書かれたエッセイで、恋人の日本語の練習のために青空文庫で本を探しているときに見つけた(ちなみに恋人とは「ごん狐」を読んでいる)。少し長いが、書き出しから非常に痛快なので見てほしい:

    日本人は早く仏教に由って「無常迅速の世の中」と教えられ、儒教に由って「日に新たにしてまた日に新たなり」ということを学びながら、それを小乗的悲観の意味にばかり解釈して来たために、「万流流転」が人生の「常住の相」であるという大乗的楽観に立つことが出来ず、現代に入って、舶載の学問芸術のお蔭で「流動進化」の思想と触れるに到っても、動もすれば、新しい現代の生活を呪詛して、黴の生えた因習思想を維持しようとする人たちを見受けます。たとえていうなら、その人たちは後ろばかりを見ている人たちで、現実を正視することに怠惰であると共に、未来を透察することにも臆病であるのです。

    「女らしさ」とは何か, 与謝野晶子

    当時、女子解放運動を「女子の中性化」と揶揄する動きが盛んにあったようで、これはそれに対する抗議として書かれた文章らしい。

    そもそも社会制度的に女子を教育から締め出し挑戦の機会すら奪っておきながら、教育を受けさせたところで「『女らしさ』というものを失って、女ともつかず、男ともつかない中間性の変態的な人間が出来上がるから宜しくない」と早くもその結果を否定するのは憶断も甚だしい、と彼女は言う。

    それに続き、「女らしさ」が女性の至上価値となってしまっており、「女らしさ」を欠けば他にどのような優れた性質があろうともその女子の人間的価値がゼロとされてしまうことへの疑問が呈されている。

    そして、妊娠以外には男女間の分業の領域は流動的であること、愛や優雅やつつましやかさといったものは女子だけでなく人間全体に共通して欠くことのできない人間性そのものであること、無常・冷酷・生意気・粗野などの特徴は男子においても許し難い欠点であること、などについての言及がある。

    なかでもとりわけ、百年経っても同じ議論が続いていると思ったのは、妊娠にまつわる話だった。妊娠できるのは女子だけ、というのは間違いないが、妊娠に至るには男子の協力が不可欠なうえ、子育ては二人の愛と知性と労働が合わさって初めて可能になるのに、社会はこれまで母性に不当に重荷を課して来た、従来あまりに父性がないがしろにされて来た、というのだ。父性と母性の両方に子育ての責任を分担することへの強調が、百年経っても未だに日本で必要とされていることに、悲しみを禁じ得ない。

    女は妊娠出産を経て一人前、というような、時代錯誤も甚だしい概念を政治家が口にしているのを見かけるたび、事の深刻さにため息が出るのだが、百年前は今よりもっと状況が酷かったのだろう。与謝野晶子は、女がそうなら男だって子供がいない男は一人前じゃないはず(なのにそう言われないのはどうして?)、実際は結婚しても様々な理由で子どものいない人はたくさんいる、結婚はしてもしなくても良い、こどもも作っても作らなくても良いのだ、男子も女子も適材適所が望ましい、個人の自由意志に任せるべきだ、そして私は結婚もしない子どもも作らない人たちが人類の中に「まじっている」ことを望ましいこととして肯定する、と言っている。

    「女らしさ」という言葉から解放されることは、女子が機械性から人間性に目覚めることです。人形から人間に帰ることです。もしこれを論者が「女子の中性化」と呼ぶなら、私たちはむしろそれを名誉して甘受しても好いと思います。

    「女らしさ」とは何か, 与謝野晶子

    明るみにでた医学部入試差別のような件があるとは言え、日本は百年前よりは女性が随分と生きやすい社会になったと思う。与謝野晶子については高校の授業を通じて名前や短歌を知っているくらいで、彼女の書いたエッセイを読むのはこれが初めてだと思うのだが、もっと早くに読みたかったなと思う。

    百年というと、うんと昔のことに感じられるけれど、そう言えばミルのThe Subjection of Womenはもっと昔(1869年)に刊行されているし、人々の意識を変えるには百年くらい時間がかかるのかもしれない。

  • オックスフォード大学では今週の月曜日から the University and College Union (UCU)加盟員によるストライキが始まった。給与、年金、勤務待遇に関する交渉が合意に至らなかったようだ。一定人数以上の加盟員がストライキに賛成すればストライキが合法となる法律があるようで、今回もアンケートの結果、ユニオン加盟員の74%が賛成したため実行に至った。

    オックスブリッジ(オックスフォードとケンブリッジの総称)のスタッフの何と80%は、短期雇用契約で働いている。ストライキに参加したくとも、今学期は勤務していないことを理由に今回参加できなかった職員も多いようだ。

    ストライキの参加者は今週いっぱい、午前中に大学に関連する機関の入り口でpicket lines(日本語では「監視線」というらしい)を張っていた。

    しかしながら、ストライキ参加者はあまり積極的に学生の出入りを妨害しなかったうえ、キャンセルになったのはしばしば選択的に扱われる講義だけだったので、実際のところチュートリアルを受ける学部学生にはほとんど影響がなかった。

    今週ストをしている知り合い曰く、一年契約でオックスフォードに来てしまうと貯金を切り崩して生活することになるようだ。ロンドンでは物価に合わせて給与が調整されているのに、オックスフォードでは同様の措置がなされていないとのことだった。それでもここで働けることはキャリアを形成する上で有意義なことなので、腹を括って英国各地、世界各地から研究者がやってくるらしい。それが数年単位の契約になれば、状況は少しは改善するが、それでも不十分すぎるとのことだった。

    大学の給与体系に詳しい仲の良いスタッフは、論文の数などで設定する給与が若手に非常に不利で若手の育成・彼らの生活を全く考えていないと不満を漏らしていた。若い研究者の生活を顧みない雇用形態に加えて、年金についても日本同様、消えた年金・膨れ上がる年金などが問題となっているようで、ストライキに至った理由は非常に深刻だ。

  • 菅官房長官が“山口敬之氏への資金援助”を企業に要請の報道が! 詩織さん事件で逮捕を止めた警察官僚も菅の右腕だったが…

    詩織さんのことは、彼女が外国人特派員で会見をした頃からずっと応援している。これだけの目に遭いながら、他の人が同じ思いをしないようにとレイプにまつわる日本社会の医療的・法律的・文化的問題点を浮き彫りにしたBlack Boxは、彼女のジャーナリストとしての素質を存分に発揮した素晴らしい本だった。

    「そういうものだから」と加害者への責任追及を諦めて心に蓋をすることだけでも耐え難いほどの苦痛なのに、顔と名前を出して淡々と事実を記した本を執筆した彼女の不正義に立ち向かう強さを私は心から尊敬している。(反対に、山口氏のことは心の底から軽蔑している。)

    だから、昨年の終わりか今年の初め頃に、山口氏が名誉毀損等で詩織さんを訴えるというニュースを見たとき、はらわたが煮え繰り返るようだった。私は怒りっぽいので、普段から何らかのニュースに憤慨することはままあるけれど、この時は本当に絶句した。山口氏がどう動こうと彼女の正しさは揺るがないのだが、どこまでも狡猾な彼が高額を提示して反訴をするくらいだから、もしかしたら裁判の結果は残念なものになる可能性もあると思った。

    最近、父親に何年にもわたりレイプされ続けた女性が父親を訴えた裁判で、裁判所がレイプの事実を認定したにも関わらず、「同意があった」として無罪になった例があった。こんな信じられない判決が下るような国だから、なんだってありうる。

    Black Boxが出版された当初は、いわゆるネトウヨが、彼女の書き記したレイプ被害を矮小化して彼女のことを散々に罵倒しているのを見て、加害者の山口氏が安倍首相と仲が良いことにあまり焦点を当てて欲しくないと思った。性被害者を取り巻く環境や性被害者の気持ちを考えたこともないような人たちが、彼女の主張を政治問題として寄ってたかって糾弾するのが全くもって許せなかった。

    でも、なんと昨日、山口氏の逮捕状が理由なく取り下げられた時の刑事部長だった中村氏および菅官房長官と山口氏との関係が報道された。どうやら菅官房長官が山口氏に金銭的な口利きをしていたらしい。そして、中村氏は菅官房長官の元秘書。こうなると、紛うことなき政治問題だ。ネトウヨは正しかった!(真実は彼らが信じたいこととは正反対なんだけど、現政権を揺るがす政治的大問題という点において)。

    政治的権力を有する人物らと親しい間柄にある人間や、社会的地位の高い人間は、(立場の弱い人間を相手に)性犯罪を犯しても罪を償わない。先日亡くなったジャニーズ事務所の社長もその例。

    こんな不正義がまかり通って良いのだろうか。どうか、詩織さんが判決で報われますように。一刻も早く、詩織さんの心に平穏が訪れてほしい。

    伊藤詩織さんが、法廷で争う男性と4年ぶりに対面 話を直接聞けて「良かった」

    6時間の口頭弁論 伊藤さん「痛みで目が覚めた」、山口さん「なだめる気持ちで誘いに応じた」

    詩織さんの民事裁判を支える会

  • 「what type of long dress for petite girls」とかで検索すると、検索上位のサイトはスリットの入ったドレスや胸下切り替えのドレスを勧めてくる。理由は脚長効果。同様に、胸やお尻の大きさ、くびれの有無、(日本語環境だと)なで肩など、検索に応じていろんな身体的特徴に対しての推奨が出てくる。

    どんな体型のどんな顔つきの女性もみな美しい、というたぐいの主張をする人が、背の低い女性からBlack tieのイベントに来ていくドレスの助言を求められたとき(「自分が一番美しく見えるドレスをきたい、デザインはよく知らないので何でもいい」)、なんて答えるんだろう。

    現在「(特定の体格)に似合うドレス」として言われているものは、「脚が長く見えるから」「ウエストが細く見えるから」「背中のラインが綺麗だから」などをその理由としている。言い換えると、「似合うドレス」という判断の背後に「脚は長い方が良い」「ウエストは細い方が良い」といった規範的な主張·概念があると思う。

    だから、こういう規範的主張を背後に抱える「それぞれの体格に似合うドレス」という概念は、「どんな体型のどんな顔つきの女性もみな美しい」という主張と根本的に両立しえないと思う。両者が対峙したとき、助言の内容がどのように変化するのか興味がある。「それぞれの体格に似合うドレス」なんていう概念が崩壊して、「本人が美しいと思うドレスを着ればそれが一番似合う美しいドレスである」となるんだろうか。自分を一番美しく見せてくれるドレスをまといたい、と思っている質問者は、そんなことを言われても困ってしまうだろうし、そもそもそんなことが本当にありうるんだろうか?

  • ビザ更新の時期が近づいてきた。今はTier4で留学しているんだけど、大学の規則で来年はTier4を取得できないので、Tier5のYouth Mobility Visa(ワーホリビザ)か、Temporary Worker Visa (研究者ビザ)を取得する必要がある。ワーホリビザの抽選に挑戦してから、ダメだったら研究者ビザにしようと思っていたんだけど、どうもイギリス国内からは応募できそうにないので、初めから研究者ビザになりそう。

    If you are living overseas you can also apply following the instructions above, and if you are chosen to apply you will be able to do so in your country of residence. Applications cannot be submitted for the Youth Mobility Scheme 2019 in the UK. An email will be sent to unsuccessful customers on Monday 22 July to inform them they have not been chosen and that no further action is required.

    海外在住の日本国籍者も上記の方法でお申し込みください。当選した申請者は在住国での申請が可能です。2019年度 Youth Mobility Schemeビザを英国内から申請することはできませんので予めご注意ください。なお、当選されなかった場合には、7月22日(月)に落選メールが送られます。それ以降の連絡はありませんので予めご了承ください。

    駐日英国大使館

    この曖昧な書き方!日本語の「申請」が、抽選への参加を意味するのか、当選後の手続きを意味するのか曖昧だ。「お申し込み」「申請」「申請」という単語から、抽選への応募までは英国内からできそうな気もする。だけど、英語を読むと、句読点の位置と文章の切れ目から、イギリス国内からは抽選への応募すらできないんだろうと思えてくる。

    まあいずれにせよ、今夏は日本に帰る必要がある。イギリスの夏は爽やかで快適なのに、わざわざじめじめとした蒸し暑い日本に帰らなければならないことに、気持ちが塞いでくる。

    ビザとか、入学手続きとか、国際結婚の手続きとか(国籍の違う人との結婚は、にわかには信じられないくらい面倒くさい)、なんでこんなに面倒くさいんだ。事情があって再来週は米国大使館でもとある手続きを受けなくてはならない、考えるだけで本当にいらいらする。

  • Jonathan AnomalyのWhat’s Wrong With Factory Farmingを読んだ。とてもよくまとまっていたので、かいつまんで紹介したい。ソースは全て元の論文にあるので、詳しく知りたければそちらを見て欲しい。記事内の章立ては論文の通り。

    この論文には、工場畜産にまつ悪以下の3つの倫理的問題が紹介されている。

    1. 病原ウイルスが拡散すること
    2. 抗菌薬耐性のある病原菌が人間と共有の微生物環境に拡散すること
    3. 閉鎖環境で育成することの残忍性

    日本語環境でみかける工場畜産批判や工場畜産批判批判は、3を軸にして行われていることが多いけれど、1や2も年々大問題となっているので、少しでも正しい情報の拡散に貢献できたら良いと思って訳してみることにした。

    動物とインフルエンザ

    「新型インフルエンザ」に豚や鶏の関与が認められて久しいが、畜産動物は、(1)狭い場所に閉じ込められることでストレスのため免疫機能が下がっており、多くの感染症にかかりやすい状態になっている。(2)多くの個体が狭い空間にいると感染症は広がりやすい。(3)異なる種類の動物が濃密な接触をすることで、ウイルスは持続的に変異し再集合し、新たな種類を生み出す。(4)多くの場合畜産動物は室内に閉じ込められ十分な日光や換気のない場所で過ごすので、ウイルスは長期間生存しやすい。(5)工場の畜産動物は互いに遺伝的に似ているので、同じ種類のウイルスに感染しやすい。したがって、ウイルスは「自然な環境」にある場合よりも、長期間ホストに寄生しやすい。これらの要素により、工場畜産は感染症の温床となっている。

    抗菌薬耐性菌

    抗菌薬耐性菌は近年これまでにない注目を浴びている。抗菌薬の誤用が抗菌薬耐性菌を増加させることは多くの人が知っているが、家畜における抗菌薬しようと人間に広がる抗菌薬耐性菌との関連に気がついている人はほとんどいない。

    畜産動物は、感染症の広がりやすい環境で生育しているため、感染症による死を避けるために抗菌薬の予防投与が日常的に行われている。なんと、世界中のおよそ半分の抗菌薬が、家畜の成長と病気の予防のために使われていて、米国だけに限ると、なんと抗菌薬の3/4が工場畜産に用いられている。

    畜産動物に広がる抗菌薬耐性菌は、(1)畜産に関わる人々を介して拡散する。また(2)いくつかの菌は、調理後も肉の中に残存するので、肉を食する人に直接取り込まれる。(3)工場畜産ででた家畜の糞は畑の肥やしとして再利用されるので、農業に関わる人や農産物を食べる人に直接取り込まれる。(4)工場付近の野生動物に感染して、それらを介して拡散することもある。

    動物への残忍さと公共政策

    哲学者は、動物には権利があるのか、もしあるとしたらその権利はどこから来るのか、論じている。どの理論も、有感動物(sentient creatures)つまり痛みやストレスを感じることのできる動物は、保護に値するとしている。

    問題なのは、人間と動物の利害が衝突するときである。人々は医学研究を発展させたり、安くタンパク質を消費することに利益がある一方で、動物は少なくとも不要な痛みやストレスからは自由になることに利益がある。

    動物の福祉に関する理論は大抵、動物に残酷な行為を行わないことそれ自体を、必要なjustificationなく義務としている。合理性や意識が道徳的地位を持つための必要条件だという哲学者もいれば、有感性があれば利益を保護されるのに十分であるという哲学者もいるが、「豚にも利益がある」という主張は、豚にも車や家を所有する権利があるという示唆ではなく、豚が受ける不必要な痛みやストレスは最小限である権利がある、ということを意図する。

    動物への残忍さの程度は地域によって異なる。ヨーロッパ連合では、EU全てのメンバーに対して適応される、反残忍法(anti-cruelty law)が制定されているが、アメリカや中国では野放しの状態だ。

    個人任せにしていてはいけない

    「適切に生育された」などのラベルのついた少し高級な肉を市場に流すのでは不十分だ。

    (1)第一に、倫理的にひどい実践に対する無知は経済的な意味でときに合理的な選択だからだ。限られた時間で全ての情報を得るのは負担が大きいので、消費者は合理的な理由で知ろうとしない。知ろうとしないので、知っていたら絶対にやらないような残忍なこともできてしまう。

    (2)第二に、リベラルな政府の機能として、公共の善を生み出し、互いに与える不要な危害から人々を守ることが挙げられる。値段が安いという理由で一部の人は工場畜産の肉を買い続けるのだから、不要な危害を減少させるために政府が率先して畜産の方法を変えるべきだ。

    非常に明快な開始点としては、世界中の全ての国がEUのバッテリーケージ(鶏を狭い鶏小屋に閉じ込めて飼うこと)禁止に従うことだろう。藁を使ってスペースを作り、新鮮な空気を与えることで、鶏のストレスを軽減させることができる。

    またヨーロッパでは、畜産動物に対する生育を目的とした抗菌薬投与は禁止されているが、米国もそれにしたがうと同時に、治療目的の抗菌薬投与にも課税し、得られた税金で新たなワクチンや抗菌薬の研究を進めるべきだ。

    畜産環境の改善には莫大なコストがかかると思われがちだが、デンマークの研究では、標準的な動物福祉の基準を満たす環境の整備に豚1頭あたり1ポンドの費用しかかからなかったとされている。米国と中国はそもそもの開始点のレベルが低いので、より多額の費用がかかることは間違いないが、畜産環境改善のコストが流通する肉の価格にどのように影響するかは未知数であるし、そもそも米国人や日本人は栄養的に必要な量以上の肉を日々消費しているので、価格は第一の問題とはなり得ない。

    (3)最後に、肉の相対的な価格が上昇すると、幹細胞から作られた合成肉の価格が低下して、「自然に」作られた肉よりも安価で健康に良い肉が手に入るようになるだろう。肉の価格の相対的な上昇が、貧困者にダメージを与えるという議論は、環境改善にとりくまない十分な理由とはなり得ない。世界中の多くの人が、環境改善の後でも、倫理的に育てられた動物由来の食品を消費することができるし、貧しい人々は豆をタンパク源とすることができる(すでにそうしているように)。一部の人々は、置かれている状況のせいで、食べたい分量の肉より少ない量の肉しか食べられなくなるかもしれない。それでも、それを理由に現状維持を支持する権利;他者や動物に不必要に危害を与える権利はない。

  • 最近はヴィーガン生活が軌道に乗り始めた。すでに購入していたもの(チャイラテとプロテインパウダー)は抜きにすると、ここ2ヶ月ほどは自宅では動物性食品を口にしていない。

    こんなに環境の整ったイギリスでできなければどこの国でもできないと思ったので、イギリスにいる間だけでもという気持ちではじめた。スコットランドを旅行した時にカウチサーフィングで出会ったレオというひとがヴィーガンで、彼のキッチンを見せてもらったのも、良い刺激になった。

    私は日本にいたときはペスカタリアン(魚介類は食べるが肉は食べない人)で、将来的にはベジタリアン(魚介類も食べない)になることが目標で、ヴィーガン(卵や牛乳も摂らない)は「やりすぎ」だと思っていた。でも渡英して一切魚介類を口にしなくなると、最初はお寿司や鯖の塩焼きが恋しかったものの、だんだんと慣れてきて、魚を食べたいとは思わなくなった。肉に対する感覚(私は肉は食べ物ではなく死体だと思っている)ほどではないけれど、魚や海老の匂いや見た目で食欲が削がれることもあるくらい。そうやって食生活と食事の嗜好が変化するうちに、哲学科の学生や研究者でヴィーガンの人たちと会う機会がたくさんあって、彼らに影響を受けて私もヴィーガンになろうと思うようになった。

    2ヶ月の間、外ではときどきベジタリアンのもの(甘い焼き菓子とか、スクランブルエッグとか、チーズを使ったサンドウィッチとか)も食べていたから、今の時点で体調の変化をどうこういうのは時期尚早かもしれないけれど、私は特に体調の変化は感じていない。

    最近気に入っている朝ごはんは、パンにマーマイトを塗って、アボカドをのせてチアシードをかけたもの。

    マーマイトはイギリスのベジマイトのようなもので、ビタミンB12の源になる。チアシードとフラックスシードはレオに教えてもらった。ヴィーガンには結構大事な、オメガ3の栄養源だ。ヴィーガン向けのサプリメントは毎日摂っているんだけど、一応食事にも気をつけている。

    日本にいた時から、餃子とか麻婆豆腐とかハンバーグとかラーメンとか「本来肉が入っている食べ物」はいつも自分で作っていたけれど、ヴィーガンになって、「本来魚介類が入っている食べ物」も自分で作るようになって(イギリスだとヴィーガンでも外食やテイクアウトで複数選択肢があって全然困らないんだけど、自分で作ると節約になるから)、ヴィーガンでもこんなに美味しく出来るんだとびっくりした。

    ある人が、「私がベジタリアンになったのは、荒廃した食生活のなれの果てなので、『丁寧な生活』と親和性の高いヴィーガンとの間には途方もない壁がある」と言っていたけれど、そういう『丁寧な生活』の側面はあるかもしれない。ヴィーガンのジャンクフードばかり食べていたら肉食者とは違うタイプの栄養失調(Vit B12欠乏による悪性貧血、亜鉛欠乏症、など)になってしまうので、知識を持って健康に気を配る必要がある。全く料理をしない・マーマイトとチアシードとアボカドのトーストを作ることすら面倒くさいような人には少し厳しいかもしれない。

    ただ、ヴィーガンは人々の予想に反して安上がりではある。セレブの道楽のようにみなされがちだけれど、アメリカの調査で、ヴィーガンの人は肉食者より所得が低いという結果があったと思う(これに関してはサンプリングバイアスだとかデータの信ぴょう性に議論の余地はあるようだけど)。イギリスでも、感覚的にはヴィーガンの生活は魚介類を食べていた頃より安上がりだ。イギリスでは、肉料理とヴィーガン料理が並んでいるときは大抵、ヴィーガン料理が1ポンドくらい安いし、肉食の人は私の買っている野菜のかわりに肉を買うのだから、ヴィーガンの生活はペスカタリアンの生活だけじゃなくて肉食の生活と比べてもきっと安上がりなんだろう。

    ジャムとかピクルスの使い終わった空き瓶に、コーンスターチやゴマやチアシードやクスクスやキヌアやアーモンドパウダーやレーズンのようなものを詰めて再利用している。買った時のパッケージのままより使いやすい。最近は自分のキッチンの棚に色とりどりのスパイスや大小様々な空き瓶に入った食材を見て、いつもわくわくしている。手のかかる料理は苦手なので、簡単なものしか作らないけれど。

    私は自分のことを「ヴィーガンに興味のあるベジタリアン」と形容していて、完全なヴィーガンになるのは難しいかもしれないと思っているのだけど、選択肢がない場合を除いては、動物性食品の消費は可能な限り減らしたいと思う。

  • スコットランドで会った社会学専攻の大学院生が、テラスハウスを見て日本にますます興味を持ったと言っていた。随所に溢れるメンバーの礼儀正しさや、何も起こらないもどかしさが彼にとっては斬新なのだそうだ。

    強く勧められたので旅行後に一度挑戦してみたのだけど、その時には10分と観ていられなかった。若いメンバーの言葉遣いと語彙力の無さ、そして会話そのものではなく会話の雰囲気だけで会話が進んでいく様子が耐えられなかった。

    でも最近、別の人が同じことを言っているのを聞いたので、もう一度観てみることにした。今度はハワイ編。私は独特の雰囲気のローレンというメンバーに惹かれて、最初は彼女をみるために、彼女が抜けてからもなんとなくやめられず惰性で最後まで観てしまった。

    一番良かったのは、個々人の目標や夢も丁寧に描かれていたところ。モデル・イラストレーター志望のローレンと、プロサーファーのガイのことは心から応援したくなった。モデルも、イラストレーターも、プロサーファーも、私の人生からは程遠い存在で、私が知ることができるのは既に大きな業績を残した人たちのことばかりだから、こうやって夢の途中にいるひとたちの生活を垣間見ることができたのは面白かった。

    「日本の恋愛」について字幕を通して英語の世界から眺めることができたのも、とても興味深かった。

    でも一番興味をそそられたのは、日本語と字幕の乖離だった。背景知識の必要なジョークや日本語の言葉遊び的な軽い会話や、日本語ではよくある会話なのに訳すのが難しい文章についての字幕が、とても斬新で勉強になった。改めて、通訳という仕事の大変さを理解した。

    あるレビュー記事は、テラスハウスについて「日本語で展開するドラマなので、字幕に集中しなければならず、結果としてマルチタスクがデフォルトの現代人に一つのことに集中する機会と瞑想的な効果をもたらしている。」と評していたけれど、私にとってはその逆で、部屋を掃除したり料理をしたりする間に観て時々字幕を確認するという風に気を抜いて観ることができたのも良かった。

    気に入らなかったのは、出演する男性のほとんどが、女性を見た目でランク付けするだとか、料理を女性の仕事とみなすだとか、あとは童貞を馬鹿にするだとか、そういう類の価値観を持っていて、会話の端々にそれが溢れ出ていたこと。日本ではよくある光景なので、日本発のリアリティ・ショーとしては必須の要素なのかもしれないけれど、そういうものとは距離を置きたいと思ってきた私はイライラすることも多かった。

    シェリーのような人を、関わらないで遠くから見るのも非常に興味深かった。彼女のように絶対に自分の非を認めずなんでも他人を責める性格だと、友人でも恋人でも長期的な関係を築くのはきっとすごく大変だ。シェリーと他のメンバーの対立は他国でどのように捉えられてるのか知りたくて調べたら、案の定文化摩擦的に捉えている人が一定数いた。それから「彼女はコカインをやってる、あの目と口元の動かし方は、コカインに独特」とかいうコメントもいくつかあったけど、圧倒的に多かったのは、彼女が著しく共感を欠いていて他人を操作する矛盾に溢れたナルシシスティックな存在だという意見だった。私も文化摩擦というよりは彼女個人の性格の問題だと思った。

    世の中にはいろんな人がいるという当たり前のことを、ひとびとと直接の交流をすることなく実感できて、リアリティ・ショーにも見どころはあるのだなと思った。テラスハウスは、翻訳で失われるニュアンスを再認識させてくれたと同時に、リアリティショーというカテゴリを観る前から毛嫌いしていた私の先入観を改める契機となった番組だった。ショーの中の人間関係それ自体を楽しむというより、翻訳で失われるニュアンスだとか、ドラマを違う文化圏で育った人がどう捉えるのか、私はそちらの方に強い興味があるのだけれど。

  • 今日はフェミニズムの授業に参加した。シモーヌ・ド・ボーヴォワールと、伝記の持つ政治性について。

    哲学者の私生活を知る意義

    哲学者の私生活については、ReductivismとCompartmentalismという2つの見方がある。前者は、伝記が哲学者の思想を理解する鍵を握っているという立場で、キルケゴールなどがこれに該当すると言われている。後者は、哲学者の人生を理解することと思想を理解することは無関係であるという立場で、カントなどがその例だ。

    古代に遡れば、哲学とは生き方そのものであった。だから、ソクラテス、ストイック、エピキュロス、プラトン、キルケゴールやニーチェの生活と思想は強く関係がある。

    ボーヴォワールの人生を知ることと彼女の哲学を知ることとの関係について、まず初めに留意すべきは、「女性」の社会における扱いである。

    女性は、思想や話の内容よりも容姿や服装で判断されがちである。専門家としての側面より、パートナーとしてあるいは母子としてなど、誰かとの関係性において説明されがちである。引用形式ではなく、報告の形式で思想が広がりやすい。ネガティヴな性別による偏見を受けやすい。「彼女が言いたいのは…」と発言を言い換えられがちだ。

    ボーヴォワールも例にもれず、彼女について書かれた本や記録には、このようなものが多い。さらには、彼女の作品は断片的に翻訳されることが多く、いまだに英語に翻訳されていない・出版もされていない文章がたくさんあるそうで、それもまた彼女が不本意な批判を浴びる原因となった。彼女についての伝記の類は、彼女の哲学的思想に焦点を当てて書き直す必要があるとのことだった。

    サルトルと

    ボーヴォワールは、agregationという大学教員の就職試験のようなものに、最年少で、しかも2位で合格した。また、若い頃から哲学に情熱があり、とりわけ、自由と愛について熟考することが多かった。自分を愛するとはどういうことか?他者に倫理的な態度をとる(=愛する)とはどういうことか?そういったことを深く考えていたようだ。

    サルトルとボーヴォワールは、お互いがお互いに影響しあった。哲学科の学生が、別の学生と話していく中で議論のやり方を学びアイディアを発展させるように。どうしても、セットで、あるいはサルトルのパートナーとして語られることの多いボーヴォワールだが、彼女自身も素晴らしい業績を残している。

    Il fait choisir

    選択が価値の源である (Il fait choisir.)、とボーヴォワールは考えた。失敗は、行動につきもの(Failure is an inherent possibility of action.)と考え、失敗することをあまりネガティヴには捉えていなかった。失敗することより、受け身で人生を送ることについて問題視している。

    The very notion of action would lose all meaning if history were a mechanical unrolling in which man appears only as a passive conductor of outside forces. 

    The Ethics of Ambiguity. Simone de Beauvoir 1947

    講義自体も非常に面白かったが、質問の時間もまた興味深かった。ある学生が、「私は遠距離恋愛をしている。遠距離恋愛のシスカップルの場合、男性に合わせているとほぼ必ず女性のキャリアに陰りが出る。どうしたら良いか?」と聞いた。非常に個人的な質問でもあり、先生は少し困っていたが、「本当の愛(authentic love)は相互(reciprocal)である必要があり、パワーバランスが存在しているのなら、それはreciprocalではないということ。是正するよう試みるのがいいかもしれない。」というようなことを答えた。

    続いて別の学生が、「フェミニズムに興味があり構造的不正義にも理解のある私達のような女性は、次の世代のために、仕事を辞めないでキャリアを第一に人生設計する義務があるのではないか」と尋ねた。どのような道を選んでも誰も批判されない社会、というのは是非とも実現したいけれど、現在の社会がいびつでその実現から程遠い今、フェミニズムをよく理解している女性はステレオタイプを壊す方向に動く必要があるという趣旨の質問だった。それに対しては、「義務はない。女性が自己犠牲に走る歴史が脈々と続いている。仕事を辞められる環境があって本当は仕事を辞めたいのに、意に反して仕事を続けることは、その自己犠牲の歴史の上塗りになる。自分が何に価値を見出すのかをよくよく考えて、それに従えば良い。」といっていて、私には目から鱗だった。何ということはない、私にとっては家庭外労働は非常に価値のある大切なことなのだといういつもの考えにたどり着いただけなんだけど、働き続けることに義務に近いくらいの責任を感じていたので、そうではないと言われて意表を突かれた気持ちがした。

    「ボーヴォワールは皆が真似をするようなアイコニックな存在になりたかったのか?」という質問に対する回答もまた非常に面白かった。「例になるというのは、良い意味にも悪い意味にもなる。ボーヴォワールは皆を刺激して鼓舞したかったけれど、皆が真似をすればいいとは思っていなかった。盲目的に真似をするのではなく、一人一人に自分で考えて欲しいと思っていた。」ちなみにボーヴォワールは1950年ごろに、自分は仕事よりサルトルが大事、というようなことを書き記しているらしい。

    あとは、哲学を学ぶ時には、その当時の時代背景を知り、その書かれた言葉で、作品を読まなければ、本当に学んだことにはならない、という少しdepressingな名言も聞いた。そうなんだろうなあ。フランス語ちゃんと勉強しよう…。

    インターネットの影響で、新しい概念が次から次へと生まれて、概念が廃れるサイクルが早い、という話や、我々が最後のフェミニスト世代かもという話もあった。

    日本で自らフェミニストと名乗るひとにあったことがなかったので、部屋いっぱいのフェミニストを見てそれだけで少し嬉しくなった。夕方はミルのThe Subjection of Womenの講演を聞きに行ったりして、今日はフェミニズムの日だった。フェミニズムがどういう方向に向かっているのか、幅広いフェミニズムの中で自分をどこに位置させるか、決めかねているのだけれど、それでもやっぱり社会に共通の問題点を見出している人たちと話をするのは少しほっとする。それに、実存主義や能動的に行動すること考えることを促す思想に触れるのもやっぱり好き。今日は全体的にいつもより機嫌よく過ごしたような気がする。

  • ワシントンDCの家庭医が書いた、Why Do Doctors Overtreat? For Many, It’s What They’re Trained To Doを読んだ。興味深い記事だと思った。

    記事の冒頭に紹介されているのは、産婦人科の若手医師の話。帝王切開は必須手技の一つなので、出来るだけ多くの症例を経験したいと思っていた。

    厄介なことに、彼女は、帝王切開が患者にとって良いことばかりではないということを知っていた。彼女と同僚たちは、第一子に対する帝王切開をできる限り防ぐことに熱心に取り組んでいた。

    ここで、彼女は葛藤を感じる。帝王切開はできる限り避けるべきだと知っていながら、同時に、世界中の帝王切開の症例が欲しいと思っていたからだ。

    医学教育は、若手医師が手技や治療を経験すればするほど、のちに自立した時に優秀な医師となることを前提としている。少ないより、多い方がいい。

    しかしながら、過剰な検査には金銭的・個人的負担が伴う。医療費の増大に加えて、患者の不安や侵襲的手技に伴うリスクは無視できない。

    2014年のJAMAの研究などいくつかの研究が、研修医の頃に学んだ型が残りの医師人生に強固に刷り込まれることを報告している。患者がより多くの検査や手技を受けた地域で教育を受けた研修医は、自立後も同様のアグレッシヴなスタイルを貫くのだ。

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