続々と新型コロナウイルス のパンデミックに伴う医療資源の配分、特に、誰に人工呼吸器を優先的に使用するかについての論文やガイドラインが出てきている。
Who gets the ventilator in the coronavirus pandemic? These are the ethical approaches to allocating medical care
上記の記事では、この問題への理論的なアプローチについてよくまとめて書いてあったので、簡単に訳してみようと思う。
呼吸不全の患者が2人いることを想像してみて欲しい。
ジョアンは40歳で、子どもが二人いる。普段は健康で特に障碍もない。マリーは80歳で、重度の認知症があり、介護施設に入所している。
西欧では、医師はCOVIDー19のケースの爆発的な増加と、それに伴う深刻な医療資源の不足ー生命に直結する人工呼吸器も含めた資源の不足ーに備えはじめている。
医療資源が十分にある時には誰もが平等な機会を与えられるべきだというのは否定できない。
誰しも、性別や人種、年齢、障碍や他の要因を理由に、利用可能な医療へのアクセスを拒否されてはならない。これは不公平な差別に該当する。
しかしながら、医療資源が限られている時、医師は様々な要素を加味して決定を下す必要がある。
オーストラリアではどのように供給を配分すべきなのか?
イタリアでは、このような要素はすでに加味されていて、医師たちは誰が生きて誰が死ぬべきかについて決断を下している。
イタリア北部からのある書類は次のように論じている:「救急における集中治療へのアクセスの基準は、80歳以下であること、あるいはthe Charlson comobidity Index(これは他に幾つの基礎疾患を患者が有するかを示す)のスコアが5以下であること、のいずれかを含まなければならない。」
実際、ニグアルダの医師は60歳以上のいかなる患者にも延命治療を行うことを拒否すると宣言している。
それでは、オーストラリアのような国は、限られた人工呼吸器をどのように配分すべきだろうか?
以下に5つの方法を示す。
1.平等主義:「早いもの勝ち」アプローチ
人気のアプローチの一つは、アクセスにおける平等である:誰もが治療の平等な機会を持つべきである。
平等主義(Egalitarianism)は、等しいニーズには等しい治療をと論じ、他の要素は差別化のために用いられるべきではないとしている。
これは国民皆保険の基本理念である。しかし実際には、平等に切羽詰まったニーズがあるとき、これは「早いもの勝ち」を意味する。
治療機会の平等は、人工呼吸器が一つしかない場合に医師がコインを投げてそれを使用する患者を決めるとか、そのようなランダムな手続きを採用することになる。(早いもの勝ち、もそのような手続きの一つである。)
2.功利主義:「資源の最大限の利用」アプローチ
機会平等の代わりのアプローチは、ある行為のもっともらしいあるいは期待される結果を考慮することである。このアプローチの最も有名な形は、功利主義(utilitalianism)として知られていて、それによると、医師は最大の利益をもたらす行為を選択すべきである。
功利主義は数々の要素を考慮する必要がある。
最も自明な要素は、数である。ほとんどの人は、資源は最大限の人数を救うために使用されるべきだと信じている。
功利主義によると、資源は最大多数に最大利益をもたらすために使用されるべきで、もしあなたが5人あるいは1人を救うことができるなら、5人を救命するべきだということになる。
実際には、人工呼吸器の使用時間が数に直結する。つまり、ある人が人工呼吸器を占有する時間が長ければ長いほど、より多くの人が死んでしまう。
ある人が人工呼吸器を4週間必要とする場合、そして他の4人が人工呼吸器を1週間ずつ必要とする場合、功利主義は4人の救命を選ぶ。なので、医師は人工呼吸器の使用時間を考慮に入れる必要がある。
他に考慮すべき要素としては、救命の可能性がある。もしある患者ーここではジムとしようーに90%の救命可能性があり、他の患者ージョックとするーのそれが10%ならば、功利主義はジムに人工呼吸器を使う。
実際、ジョックではなくジムのような人びとを治療すれば、10人治療するごとに、1人ではなく9人の命を救うことができる。したがって、救命可能性は考慮に値する要素である。
イタリアの医師たちは、年齢も関連要素だという;年齢は救命の可能性の減少に関連しているからだ。しかしながら、功利主義では、年齢それ自体が関連要素である。高齢者は、残された予測される寿命が短いからである。
もう一度、ジョアンとメアリーのケースを考えてみよう。
もしジョアンが救命されたら、45年間生きると予測される。メアリーはというと、よくてあと数年というところだろう。
功利主義によれば、残された寿命が長いので、若者を優先的に救命すべきである。
(あとで言及するが、高齢者はすでにより長い人生を送っていることにも留意したい)
しかしながら、功利主義は年齢よりも議論の余地のある要素を含んでいる。それは生活の質(Quality of Life)である。メアリーが重度の認知症を患っていることは、彼女の治療に反対する要素としてみなされる。
極端な例を考えてみよう。認知症の最終地点は意識消失である。
呼吸不全を患っているポールを考えてみよう。彼は60歳で、今も働いていて、全ての機能を有している。フランクは、70歳で、終末期認知症で意識がない。
この場合、明らかにポールを救うべきだろう。フランクは意識がない状態で生かされても、そこから生じる利益はゼロである。実に、もし認知症のフランクがポールより若かったとしても、同様のことが当てはまる。
それでは、それより程度の軽い意識障害や他の障碍の場合はどうだろう?功利主義者によれば、こういったことは資源の配分に考慮されるべきである、それがその人の福利(well-being)に影響するのであれば。
おそらく、倫理学における最も重大な問いは、ウェルビーイングに関する問いで、何がひとの人生を良くするのかというものである。
哲学者たちは数千年にわたってこの問いについて議論して来た。答えは、幸福、欲求充足、あるいは人間としての繁栄(例えば他者との深い関わりや自律していること)を含む。
これらの判断は非常に議論の余地がある。我々は人工呼吸器に関して、平等主義と功利主義、どちらのアプローチをとるべきだろうか?
3.契約主義:「無知のベール」アプローチ
3つ目のアプローチは、契約主義(contractualism)である。これは人々に「無知のベール」の背後で選択をするよう迫る。もしあなた自身が、ジョアンか、メアリーか、ポールか、フランクのいずれかである可能性が等しくあるならば、誰を救いたいだろうか?
このようなケースでは、ほとんどの人は、患者に、最大のチャンスか、長い人生と最良のQOLを与えるような選択をしたいと考える。
契約主義は大まかには功利主義に収束する。
医師たちは実のところ功利主義的な決断を下していて、これは簡単に正当化できる。しかしながら、他の倫理的なアプローチもまた同様に正当化できるのだと認識することは重要である。
4.カーブを平らにする:「少なすぎる、遅すぎる」アプローチ
問題を解決するための、願望に基づいた考え方のアプローチが2つある。
1つめは、「カーブを平らに」して、新型コロナウイルス のケースと病院の逼迫を減少させ、人工呼吸器が必要な誰もに人工呼吸器を行き渡らせる目的で、市民の移動制限を強制するためのより大きな裁量が必要だという考えである。
これは初期の段階であれば可能だったかもしれない(シンガポールと台湾は自由を極度に制限したおかげでエピデミックをコントロールしたように思われる)。
しかしながら、今となってはそれは不可能なので、イタリアのようにオーストラリアでも人命救助に直結する医療機器の不足が起こるだろう。
5.パターナリズム:「より重大な害」神話
2つ目のそうだったらいいな思考は、高齢者や予後不良な患者に人工呼吸器を使用するのは有害であるという議論である。
ある集中治療のコンサルタントは、オープンレターにて、彼と彼の同僚は高齢者を差別しないと述べている:
「しかし私たちは役に立たないものは使いません。私たちは、害をもたらすような機械は使いません。」
しかしながら、全ての医学的介入は害をもたらしうる。集中治療が、60歳以上や併発症のあるCOVIDー19患者の役に立たないというのは、単純に誤っている。
ここでの問いは、予期される利益は予期される害を上回るだろうか、という問いである。
1000分の1の救命可能性は、1ヶ月の不快な人工呼吸器治療を受けるのに値するだろうか?これは複雑な価値判断で、人々は理性的に異なる意見を持ちうる。私ならばこのチャンスを掴むだろう。
つまり、集中治療の医師が有害な治療を差し控えるというのは、パターナリスティックであるか、混乱しているかのどちらかだということだ。
もし医師が、有害な場合には人工呼吸器を使うのを差し控える、というのならば、それはパターナリスティックな価値判断である。人工呼吸器が誰かの命を救う可能性があるならば、それが有害なのか良いチャンスをくれる利益なのか決めるのは、患者本人なのである。
代わりに、このような主張は医療資源配分に必要な決断を曖昧にしている。集中治療の医師が全ての患者に最良なことしか行っていないふりをするのは、医療資源配分の耳障りをよくしているに過ぎない。それは誤りである。
正義が我々の決断を導くべきである
医師はどのようなリスクならば取る価値があるのか、決断しなければならないーしかし、ある患者の名のもとにではなく、全ての患者の名のもとに、である。
我々の決断を導くのは正義であるべきだ。
我々には十分な人工呼吸器がなく、我々はどのようにそれを割り当てるか、倫理的な決断を下さなければならない。
当然の如く、そこには勝者と敗者がいる。我々はこれらの決断をできる限り倫理的に行わなければならない。