• 差別が無限ループする詭弁。地裁「同性パートナーを事実婚と認めない」判決の問題点は

    長年にわたる同棲の事実があるカップルですら、「同性間の共同生活が婚姻と同視できるとの社会通念が形成されていることが必要」なのでパートナーと認めない、という判断を裁判所が下していることが信じられない(異性間の事実婚なら被害者給付金の受給が認められているのに!)。同性同士の結婚や事実婚の認定は、社会通念の問題ではなくて、人権の問題だと思う。法律は、世間が何と言おうと人権を擁護すべき立場なのに、率先して踏みにじっていて許しがたい。愛する人が異性か同性かによって取り扱いを変えるべき倫理的な理由はない。

    以前友人(異性愛者)に、同性婚の話に当事者でないお前が口を出すな/当事者は代弁を望んでいないと言われたのをよく覚えている。不正を正すことが代弁・余計な口出しと思われるのは、多分どこの国にもあることなので甘んじて受け入れるが、そういう「当事者以外は黙っていろ」という姿勢は、関心を持って社会を変えようとする層の拡大の邪魔をして、構造的差別の強化存続に加担することになると思う。

    少し話は変わるが、米国に端を発した世界各地で行われているBLMの抗議活動には、当事者・非当事者ともに参加している。社会通念に染み込んだ長年にわたる差別は当事者の力だけでは解決が難しいので、非当事者も積極的に関わる必要がある。人種、性別、そしてその交差点で起きる差別は、話者がマジョリティあるいは抑圧側に属する人だと、発言を控えたりトーンを落としたりする必要がある場合もあるが、例えば今回の判決には当事者か否かによらず大きな声でNOを突きつけるべきだと思う。「社会通念」を理由に権利を剥奪されている人がいるのだから、その「通念」を作り上げているマジョリティとして私は意識的に応援に回りたい。

  • 心理学者であるJennifer Wild博士の、Managing Stress and Overcoming Anxietyという講演を聞いた。不安と驚異的なことを成し遂げる能力とは表裏一体なので、不安が強いことを悲観しないでそれとうまく付き合っていくことが大事なのだそうだ。

    1. 気持ちではなく事実に焦点を当てる
    2. 実践的な思考をする
    3. 違いに注目する
    4. 計画を立てる
    5. 3分間のにんじん
    6. 自分の外側に集中する
    7. 優しくなる

    1.気持ちではなく事実に焦点を当てる

    博士によると、心配事の88%は実現しないらしい。心配事を、事実を正確に捉えるためのチャンス・周囲を明るく照らしてくれる太陽のように捉えて、不安についての日記をつけることを勧めている。具体的な書き方などには言及がなかったけれど、多分認知行動療法で推奨されるようなスタイルの日記のことだと思う。

    2.実践的な思考をする

    自分の考えに囚われていると思ったら、とにかく身体を動かしたり、ポジティヴシンキングに挑戦したりと、何かを実践して気を紛らわす。

    3.違いに注目する

    過去と現在は違うのに、昔の嫌なことを思い出して現在を悲観的に見てしまうことがある。そういう時は、昔の失敗と現状とで似ているところではなくて、違うところに注目するのが大切なのだそうだ。(会議のメンバーが違う、プロジェクトの内容が違う、など。)

    4.計画を立てる

    一日の計画をしっかり立てるのも良いらしい。30分ごとに時間を区切って、やることを決めておいて、あとは淡々とそれをこなしてゆく。タスクは具体的であればあるだけ良い。

    5.3分間のにんじん

    逃避行動は不安を継続してしまう。なので、やりたくないこと・不安の原因に取り組む時は、「3分だけ」と思いながらとにかく取り掛かる。どんなに小さなタスクでも、取り組むことで達成感が生まれる。

    今どういう風に感じているか、ではなくて、あとでどういう風に感じたいか、に基づいて決断をする。( 面倒くさいから走りたくない→あとで爽快感を味わいたいから走る)

    誘惑を断ち切るには「できない can’t」ではなく「しない don’t」を使う。(’I can’t drink on Wednesdays’→’I don’t drink on Wednesdays’)

    6.自分の外側に注目する

    自分の外側にある何かに集中する。(よくない類の集中は、内側にあるもの;自分の思考や自分の身体への集中)気が散らさないで集中する方法について学ぶ。

    7.優しくなる

    自己批判的な姿勢はモチベーションを下げてしまう。自分に優しくなることが大事である。自分に優しくなれない人はまず他人に優しくしてみると、自分にも優しくしやすい。


    また、罪悪感は「ーしなければならない」(→「ーしなければならないのに…ーしていない」)という思考から来るので、5の方法を使ってとにかく取り組むことが大切とのことだった。

    この内容は博士の著書 Be Extraodrinaryで詳述してあるらしい。読んでみようかな。(不安のコントロールといえば、以前に読んだManage Your Mindも素晴らしくてとても参考になったのでおすすめ。平易な英語で書いてある。)こういう実践的な方法は、本当に不安な時にはつい忘れがちなので、必要な時に手の届く場所にあるように、メモを取っておく必要がある。

  • 新型インフルエンザのパンデミックに伴い、年齢による差別(ageism)についての記事や論評をこれまでになく頻繁に見かけるようになった。

    Ageismとは、実年齢に基づいた、差別・偏見・ステレオタイプ化のことである。定義上は若年者に対する差別も含まれると思うが、この用語が用いられるのは基本的にはある一定以上の年齢の人々に関する場合が多く、また本投稿も高齢者を対象としているので、以降はageismを高齢者差別と訳する。

    COVID-19がageismを可視化したと言われる背景には、イタリアやイギリス、アメリカなど、複数の国にわたる複数の病院や救急・集中治療学会等が、人工呼吸器が足りない場合には一定年齢以上の人々(*正確には他に併発症なども考慮している)を優先的治療の対象外とするなどの措置をプロトコルに取り入れていることがある。

    また、NHSは70歳以上の人々をCOVID-19の中等度リスク群に挙げていて、実際にイギリスでは65歳以上の人々はそうでない人の34倍死亡率が高いのだが、それを根拠として、ある程度パンデミックが落ち着いたら、ロックダウンの対象を高齢者のみにするという話もちらほらとあったことが、さらなる火種を生んでいる。

    高齢者と言ってもさまざまな人がおり、実年齢(chronological age)が高いことは必ずしも健康状態が悪いことを意味しない。したがって、実年齢を理由にガイドライン上のプロトコルで十把一絡げの扱いをすることは高齢者差別に他ならない(年齢要件は撤回すべきだ)、というのが、最もよく見かける主張である。

    マイアミ大学の老年科医であるMedeiros医師もまた、高齢者差別に異議を唱える専門家の一人である。以下に、彼女の記事の要約およびそれに対する私の考えを書いてみようと思う。

    *

    Mendeiros医師は、「高齢(old)」というのは事実というよりは含意のある価値判断の形容詞だと述べる。「高齢」というとき、それは、ネガティヴな、曖昧な、あるいは見下すような使われ方(「高齢者って可愛い」)をし、また自らを高齢者だと思わない人々は高齢者を自分とは距離のある存在として扱う、と医師は言う。その一例として、米国では1930年代から定年退職者を表現するのに「old」を避けて「senior」が好まれるようになったことや、地域の慈善活動に携わる「senior centres」では50歳以上が参加できるのにもかかわらず平均年齢は75歳であることを挙げている。

    「高齢」は実年齢に基づいてあるグループ全体をラベリングするのに使われており、それがエンパワメントどころか心身の脆弱性を伝えるのに用いられ、またこの語がパターナリスティックで保護的な態度をこのグループに属さない人々から引き出す点が問題であると医師は言う。「高齢」と言われる人々の多く(定義上は60歳以上)は、自らを高齢だと思っていないにもかかわらず、そのように他者からラベリングされてしまうのだ。

    ジェンダーや人種、障がいについての研究を参考に、加齢について勉強している研究者たちは、「高齢」を、肉体的変化に対する文化的構築だとみなすそうだ。白髪は生物学的反応だが、白髪を衰退の兆候と捉えるのは文化的な反応だという。そもそも老いの速度が、遺伝やライフスタイルやヘルスケアへのアクセスなどにより人それぞれ異なることに留意すべきで、それを実年齢で同一とみなすことは人々の不均一性を無視した差別的な行為だ、というようなことが、本エッセイには書いてある。

    *

    私は、このエッセイはパンデミックと関連させるには少し的を外していると思う。パンデミックのような非常事態における「傾向」の扱いについて、私はこの医師とは異なる考えをしている。高齢者においてCOVID-19による死亡率が高い傾向にあることは、先ほど紹介したとおり統計上明らかである。以前翻訳したパンデミックにおける医療資源の分配についての記事にもある通り、こういう非常事態においては、人びとはできるだけ多くの命を救うことが正しいと考える傾向にあり、それは功利主義だけでなく契約主義からも説明できる。反高齢者差別を唱える人は、「高齢」のみを倫理的に関連ある性質として取り扱うこと自体が差別的態度であると述べるが、できるだけ多くの命を救いたい場合には、最も救命率の低いグループについては優先度を下げざるを得ないのではないだろうか。(ある人口やグループの傾向を特定の個人に当てはめることの是非については、公衆衛生の倫理はきちんと勉強したことがないので、いずれ勉強したいと思っている。)

    ここで、「それでは死亡率が高いとされている他のグループはどうなのか?性別や人種や居住地は治療方針に影響しないのに、なぜ高齢だけを治療方針に反映するのか?」という疑問を抱く人がいるかもしれない。確かに、イングランドとウェールズでは黒人は非黒人の4倍COVID-19による致死率が高いという調査結果があるし、スコットランドでは貧困地区に住む人々はそうでない地域の人々より致死率が2.3倍高いという調査結果があるし、男性の方が女性より死亡率が高いという調査結果もあった。これについては、予防原則(Precautionary principle)を参考に、敢えて最も救命率の低いグループという表現をした。今後、高齢であること以上に救命率の低さと強く相関する性質が何か判明すれば、それもまた考慮の対象となるだろうが、現段階では、高齢であること(繰り返すが、実際に使われているプロトコルはより複雑で、併発症や既往症などについてのスコアリング等も含んでいたりする)は十分考慮の余地のある性質だと思う。

    時折メディアなどで、COVIDー19に関する限られた医療資源配分の文脈で、「命の選別」などの非常に不穏な表現がなされているのを見る。救命に優先順位をつけることは確かに選別と言って差し支えないのだが、非常事態においてできる限り死者を最小限にするためには致し方のないことだという点は留意したいと思う。(そもそもあらゆる資源には限りがあって、普段から見えないところで政策を通して「選別」は行われている。普段から政策の背後に隠された価値判断には目を光らせておくべきである。)大切なのは、トリアージは命の重さを決めるものではないという点だ。優先度が低いからといって、その人の命が別の人の命より軽いわけでは決してないことは、強調したい。

    高齢者に分類される年齢の人々が、ロックダウンを通して社会から分断されることへの精神的苦悩(もしかしたら今後高齢者だけがロックダウンの対象になるかもしれない)や、治療の優先度が低いかもしれない不安について書いた手記などを目にするとき、心がずんと沈み込んでしまう。でも、そういう経験に対する共感とは別に、COVID-19にまつわる限られた医療資源の配分の文脈で、高齢者をリスク群に分類することや、高齢(何度も言うが実際には併発症などによるスコアリングもある)をトリアージプロトコルの検討要項に含めることは理にかなっていると思う。

  • オックスフォード大学の精神科チームが、Lancetに発表されたガイドラインを基に、新型コロナウイルス による患者さんの死を親族に伝える方法についてのビデオを公開した。とても勉強になったので訳してみようと思う。

    1. 心の準備をする
      • 深呼吸をして
      • 患者さんの情報を確認する(名前?こどもやパートナーはいる?できれば、親しくしていた親族の名前も)
      • 病院のプロトコルを参照して、家族の精神的ケアができる組織などの有無を確認する
      • 同僚と練習する
      • 誰にも邪魔をされない静かな場所を見つける(携帯やPHSは同僚に預けて、できれば固定電話から電話をする)
    2. 電話する
      • もし応答がなければボイスメールは残さないこと
      • 応答があれば、まずは自己紹介をする(病院のどのチームに属するのかも明言)
      • 誰もいないところで話すことができるか確認する
      • ゆっくり話す(3秒数えて)
      • warning shots(「悪いお知らせがあります」)
      • 相手がどのくらい状況を把握しているかを確認する(「Xさんについて話しています」「Xさんの状況についてどのように聞かされていましたか?」「一緒に電話を聞きたい人はいますか?」)
    3. 情報を伝える
      • ゆっくり誠意を持って話す(「他界した」のような婉曲表現は使わない、専門用語は避ける、「とても残念ですが、Xさんはとても調子が悪くなって、今朝亡くなりました」、「このようなことを電話でお伝えせねばならないことを非常に残念に思っています」)
      • 伝えた後は一旦話すのをやめて待つ。相手の様子に耳を傾ける。
    4. 家族の精神的負担に対応する
      • 泣く、静かになる、叫ぶなど、悪い知らせに対する応答は人それぞれ
      • 相手の話をよく聞く
      • 沈黙を埋めようとしない
      • 「受け入れるのはとても難しいことと思います」
      • 静かな相槌や「ここにいます」などが、アイコンタクトの代わりをする
    5. もし患者さんにこどもや孫がいたら
      • その子が25歳以下の場合は伝え方について話し合う(後述)
    6. 今後のことについて話す
      • 死亡証明書、お葬式、故人の有する財産のことなど
      • ひとりじゃないと伝える(上記手続きや精神的ケアを手伝ってくれるサービスやインターネットのサイトなどを紹介する)
      • 「情報が多くて混乱しているかもしれません」「何か聞きたいことはありますか」
      • 話者の部署、名前を繰り返す
    7. カルテをアップデートする
      • 他の医療者に電話したことを伝える
      • 心的負荷の大きいことなので、一旦仕事は休憩して、お茶を飲む

    こどもへの伝え方

    • こちらに詳述あり
    • 具体的な方法に言及する
    1. 家族の心の準備をする
      • どんなに小さなこどもでも、家族の様子が違うことに気がつくことを説明する
      • 誰が伝える?どこで話す?一人ずつ、それとも複数のこどもに一度に話す?
      • 混乱を避けるため、こどもには一貫したメッセージを伝える
    2. こどもに伝える
      • ゆっくり話す
      • しっかり間をとりながら話す
      • 「深い眠りについた」のような婉曲表現は避ける
      • 叫ぶ、泣く、静かになる、全く感情を示さないなどこどもにより受け止め方は色々
      • 何度も同じ内容を繰り返す必要があることも多い
    3. よくある質問に準備する
      • 「なんで死んだの」「私のせいで死んだの?」はよくある質問
      • 誰のせいでもない、ウイルスで死んだ、とはっきり伝える
      • 病院のスタッフが出来る限りのことをしてくれた、という
      • 「他にも誰か死ぬ?」「僕も死ぬ?」「誰が私の世話をするの?」「それはうつる病気?」もよくある質問
      • 家族みんなで一緒にウイルスと戦うと伝える、手洗いなどの実用的なことについて伝える

  • PLAB2が新型コロナウイルスの影響で少なくとも7月までは延期となっているので、だらだらとPLAB2についての情報収集や勉強をしている。

    英国の医師免許を取得してGMCに登録するにはいくつか方法があるのだが、その1つはPLABという試験を受けることだ。PLABは、PLAB1とPLAB2から構成される。外国の医学部を卒業していてIELTS overall 7.5 (各項目 7.0以上)を取得していれば受験基準を満たす。PLAB1は筆記試験で、それに合格すれば、実技であるPLAB2を受験できる。ちなみに、PLAB1はインドやパキスタン、UAE、ナイジェリアなど世界各地で実施されているが、PLAB2はマンチェスターに赴かねばならない。

    PLAB2は主にコミュニケーション能力、臨床推論の能力と身体診察や採血などの実技を試される試験で、自分が英国の研修医2年目と仮定して、模擬患者やマネキンを相手にシミュレーションをする。12のステーションがあり、各ステーションごとに8分かけて、指定された通りのことをこなす。8分以内に診断に必要な情報を収集し、共感を示しつつ助言をしたり治療方針を決めたりするために時間管理も肝要なようだ。

    日本で働いていた時、同期が米国の試験であるSTEP2 CSの準備をしていた。その時は意識していなかったが、そういえば、STEP2 CSは本来(米国では)、既に臨床をこなしている医師向けではなく臨床の経験がない学生向けの試験だ。思い返せば、米国の医学部4年生は日本の初期研修医並みの臨床力があると聞いたこともあったような気がするが、ああいう試験をこなしているから当然のことなのだろう。

    英国も同様で、英国では4年生から5年生になる時にOSCEの試験がある。PLAB2の勉強のために、英国の学生向けの本やYoutubeのビデオなども見ているのだが、日本では研修医の時に勉強するようなことをこちらでは学生の時に勉強しているようだ。

    ところで、PLAB1にもPLAB2にもEthics(倫理)の項目がある。日本のCBT(4年生から5年生になる時に受ける試験)でも国試でも倫理はあったが、正解以外は明らかに不適切とわかるような5択で、最低限の良識を問うものであった。ところが、英国の学生が受けるOSCE、PLAB1、PLAB2の倫理は、結構難しくて判断に困る(そして実用的な)ものが紛れ込んでいる。

    PLAB1はともかく、PLAB2に関してはある程度それに特化した準備が必要であり、そのための予備校のようなものが英国には乱立しているのだが、フラットメイトが偶然にも数ヶ月前にPLAB2を受けたので、彼女の予備校の資料を全部もらった。それが結構まとまりがない上に英語の間違いも多くて少し使いづらい(これはどうもPLAB2向けアカデミー全般に言えるようだ)。それで英国の医師が作った英国の学生向けであろう資料を探しているうちに、こちらのOSCEが日本のとは段違いに整備されていることを知った(まあ私が医学生だったのは何年も前のことだから、最近は少し改善しているかもしれないけれど)。

    準備は思ったより大変そうだけれど、日本での診療にも役に立ちそうなことを勉強/復習できる良い機会だと思う。一回で合格できるようにがんばろう。

  • イギリスには現在、終末期の治療方針を決めるための書類や手続きについて、複数の名称が存在している。一般市民に混乱を招いている名称としては、ACPs(Advance Care Planning)、ADs(Advance Directive)、DNR、ReSPECT、DNAR(Do Not Attempt Resuscitate)、…などがあり、ある研究者は冗談めかしてこんな単語も付け加えた:DNACPRUTIACRCOASR:AOTSBG (Do Not Attempt CardioPulmonary Resuscitation in case of Urinary Tract Infection, …)。

    中でも一番新しくて注目を浴びているのは、リスペクトという手続きだ。これはRecommended Summary Plan for Emergency Care and Treatment(緊急時におけるケアと治療に関する推奨プラン概要)の略で、イギリスの蘇生カウンシルが公開している。

    ReSPECTのプロセス

    従来の「チェックボックスを埋める」ような書類との違いは、その作成方法にある。

    1)まず、患者さんと医師が病状などについて共通の理解を持っていることを確認することから始まる。

    2)そして、患者さんの希望する結果について話し合う。急に病状が悪化し自ら選択ができなくなった場合に、寝たきりになっても治療したいとか、もとの生活に戻れる可能性が低いなら治療はいらないとか、最優先事項は家族と家で過ごすこととか、人それぞれ価値観が異なるので、患者さんがどのようなアウトカムを好むのか、話し合う。

    3)それから、医師がその希望に添って希望通りのアウトカムを実現する上で最良の治療について勧める。もしReSPECTを埋める時点で患者さんに何か特定の病気がある場合にはそれについて個別に言及する。

    4)4つ目は、DNACPR(Do Not Attempt CardioPulmonary Resuscitation)についての話し合い。

    5)そして最後に、患者さん本人に、自分がこの用紙に記入したことについて自分の言葉で書いてもらう。

    この用紙を記入してもらう前に、患者さんにはこのような説明やリーフレットを家でしっかり読んでもらう。診療時に医師がこの用紙に沿って患者さんの意向を確認するのだが、大抵5ー15分程度で終わるようだ。1回の話し合いで決められない場合には、診療のたびに少しずつ、何度も話し合う。

    ReSPECTプロジェクトが立ち上がった時、医療者からのよくある懸念の一つは診療時間が足りないことだったが、この5ー15分の話し合いによって、のちの混沌とした状況(動揺している家族、非常に病状の悪い患者さん、診療科ごとに異なる治療方針)での話し合いをしなくて済むので全体としては方針決定にかける時間は減少するようだ。

    ReSPECTとこれまでの書類との違い

    ReSPECTはこれまでの「チェックリストを埋めるだけ」「事前指示書は医療費削減のための政策にすぎない」という批判から生まれた。患者さんの希望をしっかり確認し、患者さんの理解度も確認するなどのいくつかの段階を踏んで作成されるところが、ReSPECTは従来の事前指示書と性質を異にしている。

    わら人形のDNACPR:食い違う現状と市民の理解

    しかしながら、残念なことに、市民の間には根強い不信感もある。マスメディアが煽動的な見出しを好むのは万国共通であり、タブロイドなどが「DNACPRのフォームを書かされた」というような実情とは離れた表現を使うこともある。

    COVIDー19のパンデミックで、世界的に、事前に「もしも」の時について話し合っておくことの重要性が強調されている。COVIDー19を話しの入り口として、大切な人と人生で大切にしていることについて話し合いを持った人も少なくないだろうが、やはり「もしも」の時について誰かと話すのは少し気が引けるという人が多いかもしれない。

    COVIDー19に強く関連する「もしも」のときのこととしては、病院に入院したら、最悪の場合家族の誰にも会えないで死を迎えるかもしれないことだろう。現在何か持病があって、「COVIDー19悪化のリスク群」に属するとの認識がある人は、それだけでも話し合っておくと良いかもしれない。

  • 2ヶ月くらい前にイタリア語を始めた。英国にも日本にも、イタリア語がこんなに溢れていたのだなと気がついて感激している。

    フランス語を始めた時は、英語に似ていると思った。同じように、イタリア語を始めた時は、フランス語とラテン語にとても似ているなと思った。(ラテン語は解剖学や病理学などで学んだ単語を知っている程度だが、あんなに苦労して覚えた単語も、イタリア語を母語とする人には何の苦もなく理解できるんだろうと思うととても変な感じがする。)

    もちろんフランス語とは全然違う単語もたくさんあるが、基本的なものは互いに似通っているものも多い。そのためか、イタリア語の学習はフランス語のそれより順調で、単語も文法も自然に頭に入ってくる。

    ある日突然、ある単語が身の回りに溢れていたことに気がついて、はっとすることがある。例えば、without further adoという言い回しは「こんなの聞いたことない」と思いながら覚えたのに、その後何かのセミナーに出るたびに聞く(/聞き取れる)ようになった。知らないことは耳に入ってこないし記憶にも残らない。インドのGoa出身の友達と出会ってからは、インド料理のお店にいくとやたらとGoa風のカレーだとかGoa原産のなんとかだとかを見るようになった。Goaの三文字はずっとそこにあったのに、それを認識するようになったのはつい最近だ。

    新しいことを知って日常が違って見えるこの感覚が私は大好きだ。

  • The Japanese government has declared a nationwide state of emergency in April. This means that the central and regional governments  are urging citizens to stay home, but without the threat of punitive measures or legally enforceable power. Following this, there is a growing atmosphere of intolerance and increased self-surveillance amongst citizens. The government’s haphazard decision-making and absence of responsibility have rendered fully tangible the pre-existing myth of intense social pressure within Japan. 

    With Japan’s approach of asking – rather than ordering – their citizens to avoid non-essential travel, work from home and stay home, public-shaming and ostracism for those who do not concord with the request of the government seem rampant. Some restaurants were blackmailed by anonymous citizens for running under the state of emergency. Some car drivers with an extra-prefectural license plate got accused of travelling long-distance. In Osaka prefecture, the governor publicised the names of pachinko parlours which did not follow the call for shut-down for a public flogging. As a result, citizens started to put pressure on these shops to refrain from keeping them open. Although the government is only asking people to stay home and it has no legally-binding force, citizens have started to act like the fervent supporters of Big Brother and trace down the rebels. 

    This is because the sense of fairness, even if it is an illusion, is paramount in Japan. Primary and secondary education engrave it on citizens’ mind. As an ethicist points out, this is a common hallmark of psychology across cultures, but COVID-19 is looming large its existence within Japanese culture too well. When you are making sacrifices in your life to contribute to the collective good, we want to know that other people are taking up their fair share. If they are not, the immediate reaction would be either to put pressure on them to conform to the rule or to unwind your attitude and break the rule, too.

    Japanese culture likes rules. It has suppressed not only the voice of minorities but also the majorities, by convincing people that everyone is taking up their fair share and therefore you, too, have to follow the rule and endure hardship, however absurd or unreasonable the rule may seem to be. The problem of karoshi and long-standing overworking culture is an example. When you sacrifice yourself so much as to wear yourself out, you will be hard on others to conform to the rule, too, without casting doubt on the authority or the rule itself. It is not fair to have a free-rider. When the sense of fairness marries up the idea that endurance is a virtue, the resultant society looks like a suffocating dystopia, bound by self-regulation without being aware of the unreasonable demand from the authority.

    The concept of fairness may need to be reframed in Japan. It is neither a stiff competition for how well we can each conform to the rules and assimilate into society, nor unfettered surveillance by citizens of those who rebel. Fairness is not supposed to be a mechanism to allow bad policies and rules to flourish by controlling with each other. Righteous indignation, deriving from fairness and resulting in public-shaming and blackmailing, sometimes kill people either or both socially and biologically. Do they deserve that? Absolutely not. 

    While it is crucial to follow the rules, such as social-distancing and isolation, under the pandemic, we also need to keep in mind that each of us has personal reasons to act in a certain way, without having much of choice. When the government declared a nationwide state of emergency back in April, it was not clear how they would compensate for the economic loss in case citizens follow the demanding request of the government. The anger and anxiety have to be directed at the authority rather than the owners of small shops whose lives could be at stake if they follow the government’s call for cooperation to the state of emergency. The charitable aspect of fairness needs to be rediscovered and emphasised in Japan to develop a mature society, rather than the ugly side of it.


    Some ethical questions:

    1. What does fairness require here? Does it require equal treatment? Should it be the same rules for everyone? Or does fairness require different forms of treatment for different individuals depending on their circumstances?
    2. Do you think the issue here is one of justice, or rather about the attitudes that we ought to hold towards others? Perhaps we should be encouraging a sense of solidarity?
    3. Would it have been better for the state to enforce the request? If so, would the punishment be justified by consequentialist or retributive considerations? Why would state enforced punishment be better than public shaming aimed at achieving the same end?
    4. Does it matter morally whether the free-rider is putting herself at greater or lesser harm?

    My rough sketch:

    1. The rule should strictly apply to everyone at the height of the pandemic to mitigate the number of new people infected with the virus, but once the phase has gone, fairness would instead require treating different people differently so that we don’t make everyone worse-off for the sake of fairness. For example, we might be better off, as society overall, if we only ask people in the risk group to stay home while encouraging others to resume normal activities considering the mental, physical, social and financial impacts the lockdown has on individuals. Some critics would say it would be ableist, racist, or ageist to implement such a policy as researches suggest that a certain population is overall more susceptible to death with the infection. However, reopening shops and restaurants could mean more resources, in terms of finance and medical and human resources, to protect them and secure their safety. I do not delve in them further, but a strong emphasis on absolutely equal treatment for absolutely everyone does not seem to be what fairness dictates. 
    2. One of the problems is that the call for solidarity is everywhere, but individuals distort the message as a justification for their actions as a little Big Brother. Reframing the concept of solidarity among those who cannot help abusing it for criticising and controlling others takes time. So what we could do now might be to encourage people to have a bit of imagination and compassion for others who do not follow the request of the authority.
    3. Existence of legal enforcement would not change much of the actions of little Big Brothers (they would do it anyway), but I believe that a statutory sanction should be motivated by the forward-looking aims, in other words, some sort of fines as a deterrent for future violations, rather than the backward-looking retribution. It should also come with a certain limit so that the punishment is commensurable with action.
    4. There is a moral difference between the free-rider who is in a high-risk group and who is not. A healthy 20-year-old, Sam, is statistically much less likely to be severely affected by COVID-19, unlike a 75-year-old, Oliver. When both of them say ‘I will take risks because I want to see my friends tonight’, the risk they take is different. The risk Sam is taking for his life is negligible, while Oliver’s is much more significant.
  • 続々と新型コロナウイルス のパンデミックに伴う医療資源の配分、特に、誰に人工呼吸器を優先的に使用するかについての論文やガイドラインが出てきている。

    Who gets the ventilator in the coronavirus pandemic? These are the ethical approaches to allocating medical care

    上記の記事では、この問題への理論的なアプローチについてよくまとめて書いてあったので、簡単に訳してみようと思う。


    呼吸不全の患者が2人いることを想像してみて欲しい。

    ジョアンは40歳で、子どもが二人いる。普段は健康で特に障碍もない。マリーは80歳で、重度の認知症があり、介護施設に入所している。

    西欧では、医師はCOVIDー19のケースの爆発的な増加と、それに伴う深刻な医療資源の不足ー生命に直結する人工呼吸器も含めた資源の不足ーに備えはじめている。

    医療資源が十分にある時には誰もが平等な機会を与えられるべきだというのは否定できない。

    誰しも、性別や人種、年齢、障碍や他の要因を理由に、利用可能な医療へのアクセスを拒否されてはならない。これは不公平な差別に該当する。

    しかしながら、医療資源が限られている時、医師は様々な要素を加味して決定を下す必要がある。

    オーストラリアではどのように供給を配分すべきなのか?

    イタリアでは、このような要素はすでに加味されていて、医師たちは誰が生きて誰が死ぬべきかについて決断を下している。

    イタリア北部からのある書類は次のように論じている:「救急における集中治療へのアクセスの基準は、80歳以下であること、あるいはthe Charlson comobidity Index(これは他に幾つの基礎疾患を患者が有するかを示す)のスコアが5以下であること、のいずれかを含まなければならない。」

    実際、ニグアルダの医師は60歳以上のいかなる患者にも延命治療を行うことを拒否すると宣言している。

    それでは、オーストラリアのような国は、限られた人工呼吸器をどのように配分すべきだろうか?

    以下に5つの方法を示す。

    1.平等主義:「早いもの勝ち」アプローチ

    人気のアプローチの一つは、アクセスにおける平等である:誰もが治療の平等な機会を持つべきである。

    平等主義(Egalitarianism)は、等しいニーズには等しい治療をと論じ、他の要素は差別化のために用いられるべきではないとしている。

    これは国民皆保険の基本理念である。しかし実際には、平等に切羽詰まったニーズがあるとき、これは「早いもの勝ち」を意味する。

    治療機会の平等は、人工呼吸器が一つしかない場合に医師がコインを投げてそれを使用する患者を決めるとか、そのようなランダムな手続きを採用することになる。(早いもの勝ち、もそのような手続きの一つである。)

    2.功利主義:「資源の最大限の利用」アプローチ

    機会平等の代わりのアプローチは、ある行為のもっともらしいあるいは期待される結果を考慮することである。このアプローチの最も有名な形は、功利主義(utilitalianism)として知られていて、それによると、医師は最大の利益をもたらす行為を選択すべきである。

    功利主義は数々の要素を考慮する必要がある。

    最も自明な要素は、数である。ほとんどの人は、資源は最大限の人数を救うために使用されるべきだと信じている。

    功利主義によると、資源は最大多数に最大利益をもたらすために使用されるべきで、もしあなたが5人あるいは1人を救うことができるなら、5人を救命するべきだということになる。

    実際には、人工呼吸器の使用時間が数に直結する。つまり、ある人が人工呼吸器を占有する時間が長ければ長いほど、より多くの人が死んでしまう。

    ある人が人工呼吸器を4週間必要とする場合、そして他の4人が人工呼吸器を1週間ずつ必要とする場合、功利主義は4人の救命を選ぶ。なので、医師は人工呼吸器の使用時間を考慮に入れる必要がある。

    他に考慮すべき要素としては、救命の可能性がある。もしある患者ーここではジムとしようーに90%の救命可能性があり、他の患者ージョックとするーのそれが10%ならば、功利主義はジムに人工呼吸器を使う。

    実際、ジョックではなくジムのような人びとを治療すれば、10人治療するごとに、1人ではなく9人の命を救うことができる。したがって、救命可能性は考慮に値する要素である。

    イタリアの医師たちは、年齢も関連要素だという;年齢は救命の可能性の減少に関連しているからだ。しかしながら、功利主義では、年齢それ自体が関連要素である。高齢者は、残された予測される寿命が短いからである。

    もう一度、ジョアンとメアリーのケースを考えてみよう。

    もしジョアンが救命されたら、45年間生きると予測される。メアリーはというと、よくてあと数年というところだろう。

    功利主義によれば、残された寿命が長いので、若者を優先的に救命すべきである。

    (あとで言及するが、高齢者はすでにより長い人生を送っていることにも留意したい)

    しかしながら、功利主義は年齢よりも議論の余地のある要素を含んでいる。それは生活の質(Quality of Life)である。メアリーが重度の認知症を患っていることは、彼女の治療に反対する要素としてみなされる。

    極端な例を考えてみよう。認知症の最終地点は意識消失である。

    呼吸不全を患っているポールを考えてみよう。彼は60歳で、今も働いていて、全ての機能を有している。フランクは、70歳で、終末期認知症で意識がない。

    この場合、明らかにポールを救うべきだろう。フランクは意識がない状態で生かされても、そこから生じる利益はゼロである。実に、もし認知症のフランクがポールより若かったとしても、同様のことが当てはまる。

    それでは、それより程度の軽い意識障害や他の障碍の場合はどうだろう?功利主義者によれば、こういったことは資源の配分に考慮されるべきである、それがその人の福利(well-being)に影響するのであれば。

    おそらく、倫理学における最も重大な問いは、ウェルビーイングに関する問いで、何がひとの人生を良くするのかというものである。

    哲学者たちは数千年にわたってこの問いについて議論して来た。答えは、幸福、欲求充足、あるいは人間としての繁栄(例えば他者との深い関わりや自律していること)を含む。

    これらの判断は非常に議論の余地がある。我々は人工呼吸器に関して、平等主義と功利主義、どちらのアプローチをとるべきだろうか?

    3.契約主義:「無知のベール」アプローチ

    3つ目のアプローチは、契約主義(contractualism)である。これは人々に「無知のベール」の背後で選択をするよう迫る。もしあなた自身が、ジョアンか、メアリーか、ポールか、フランクのいずれかである可能性が等しくあるならば、誰を救いたいだろうか?

    このようなケースでは、ほとんどの人は、患者に、最大のチャンスか、長い人生と最良のQOLを与えるような選択をしたいと考える。

    契約主義は大まかには功利主義に収束する。

    医師たちは実のところ功利主義的な決断を下していて、これは簡単に正当化できる。しかしながら、他の倫理的なアプローチもまた同様に正当化できるのだと認識することは重要である。

    4.カーブを平らにする:「少なすぎる、遅すぎる」アプローチ

    問題を解決するための、願望に基づいた考え方のアプローチが2つある。

    1つめは、「カーブを平らに」して、新型コロナウイルス のケースと病院の逼迫を減少させ、人工呼吸器が必要な誰もに人工呼吸器を行き渡らせる目的で、市民の移動制限を強制するためのより大きな裁量が必要だという考えである。

    これは初期の段階であれば可能だったかもしれない(シンガポールと台湾は自由を極度に制限したおかげでエピデミックをコントロールしたように思われる)。

    しかしながら、今となってはそれは不可能なので、イタリアのようにオーストラリアでも人命救助に直結する医療機器の不足が起こるだろう。

    5.パターナリズム:「より重大な害」神話

    2つ目のそうだったらいいな思考は、高齢者や予後不良な患者に人工呼吸器を使用するのは有害であるという議論である。

    ある集中治療のコンサルタントは、オープンレターにて、彼と彼の同僚は高齢者を差別しないと述べている:

    「しかし私たちは役に立たないものは使いません。私たちは、害をもたらすような機械は使いません。」

    しかしながら、全ての医学的介入は害をもたらしうる。集中治療が、60歳以上や併発症のあるCOVIDー19患者の役に立たないというのは、単純に誤っている。

    ここでの問いは、予期される利益は予期される害を上回るだろうか、という問いである。

    1000分の1の救命可能性は、1ヶ月の不快な人工呼吸器治療を受けるのに値するだろうか?これは複雑な価値判断で、人々は理性的に異なる意見を持ちうる。私ならばこのチャンスを掴むだろう。

    つまり、集中治療の医師が有害な治療を差し控えるというのは、パターナリスティックであるか、混乱しているかのどちらかだということだ。

    もし医師が、有害な場合には人工呼吸器を使うのを差し控える、というのならば、それはパターナリスティックな価値判断である。人工呼吸器が誰かの命を救う可能性があるならば、それが有害なのか良いチャンスをくれる利益なのか決めるのは、患者本人なのである。

    代わりに、このような主張は医療資源配分に必要な決断を曖昧にしている。集中治療の医師が全ての患者に最良なことしか行っていないふりをするのは、医療資源配分の耳障りをよくしているに過ぎない。それは誤りである。

    正義が我々の決断を導くべきである

    医師はどのようなリスクならば取る価値があるのか、決断しなければならないーしかし、ある患者の名のもとにではなく、全ての患者の名のもとに、である。

    我々の決断を導くのは正義であるべきだ。

    我々には十分な人工呼吸器がなく、我々はどのようにそれを割り当てるか、倫理的な決断を下さなければならない。

    当然の如く、そこには勝者と敗者がいる。我々はこれらの決断をできる限り倫理的に行わなければならない。

  • 3月に受けた英国医師国家試験PLAB1の結果が返ってきた。

    無事合格していた!

    準備期間は3ヶ月で、PLABABLEを2周した。試験当日は、医学生の時以来目にしてないような疾患や解剖についての問題が出て来て少し面食らってしまって、PLABABLEを盲信していたことを後悔したけれど、結局合格していたのでよかった。

    PLAB1受験は数年前から頭の片隅にあったことで、今回無事成功に終わって一安心している。オックスフォード大学から合格通知をもらったり、PLAB1をパスしたり、この4月は嬉しいことがたくさんあった。

    こういう時にいつも思い出すのは、大学生の頃の、夢と現実の狭間で妥協点を見いだせずもがいていた自分で、狭い社会の規範に飲み込まれずよく自分を貫いたと思う。