• 私のイタリア語はフランス語と比較にならない速度でめきめき上達している。もちろん、フランス語のベースがある上にイタリア語を勉強していることや、イタリア語の環境にいてイタリア語に触れる機会がフランス語の時より格段に多いこともあるだろう。でも最大の違いは、フランス語と違ってイタリア語は、(日本語が母語の人にとって)聞き取りやすいし発音しやすいことだと思う。

    聞き取りやすく発音しやすので、知っている単語や構文でちょっと話してみようかなという気になる。フランス語は聞き取るのも発音も難しい。話すたびに聞き返されたりしていて、話すのがとても億劫だった。イタリア語ではそれがないので、話すハードルがグッと下がる。

    イタリア語の初心者向け文法書は一通り終えて、今は時々ライティングの本で作文の練習しているけれど、基本的に、会話・フルエントフォエバーのアプリを基にした、机に向かわない勉強が多い(early backerなのでフランス語の単語も全部フルエントフォエバーで覚えた;フランス語は単語数だけで言うとB2レベル!)。恋人に添削してもらう時々書く日記も結構役に立ってると思う。

    英語やフランス語の時とは全然違うスタイルでの勉強で、英語やフランス語のベースがあるからこそできる勉強方法のような気もするけれど、負担なく楽しく勉強できて楽しいし、新しい経験ができて嬉しい。専門的なレベルでイタリア語を使うことはないだろうから、しばらくはこんな感じで日常会話から勉強するのがちょうど良さそう。もう少し自信がついたら、英訳のついた簡単なイタリア語の本ではなくて、イタリア人が読む普通の本に挑戦したい。

  • 書きかけだった記事。ただの感想。


    私は今、フランス・スイスとの国境付近のイタリアの小さな街、アオスタに滞在していて、先日はアオスタから車で50分くらいのところにある、フォルテ・ディ・バードの展覧会へ行ってきた。

    フォルテ・ディ・バードは、そそり立つ岩壁の上の要塞で、千年にもわたってイタリアとフランスの往来を規制する役割を果たしていたらしい。1800年ごろには、ナポレオンがここで立ち往生して予定が大幅に狂ってしまったので、怒って要塞を爆破してしまったと聞いた。現存するものは、1830ー38年ごろに建てられたものらしい。この要塞のある場所は道が細いので、千年にわたってイタリアとフランスの往来をコントロールする目的を果たしていたみたいだ。

    遠くから見ると現代建築のように見えるけれど、近くで見ると、古そうだなと分かる。今はフォルテ・ディ・バードはイベント会場となっていて、先日はANSAの写真展と動物の写真展に行った。

    ANSAのほうは、2019年に起こった出来事についての写真だった。プロの写真は魅力的で、メッセージ性があって、見入ってしまう。COVIDが流行る前に世界的に行われた環境問題に対するプロテストは、COVIDの現状に慣れてしまった今では遠い昔のことに感じられた。一番心をかき乱されたのは、移民に関する写真数点だった。米国とメキシコの間の壁、ブランコ、スマホ、それに、越境に失敗して死んでしまった親子の背中。住居に火をつけられるロマの人々。写真の一枚一枚が雄弁に語りかけてきて、私はそこに立ち尽くしてしまった。

    動物の写真展では、美しい写真、動物のお茶目な姿を写した写真が多かったものの、人間と動物の関わり方がテーマのセクションでは目を覆いたくなるような写真ばかりだった。川に無残に浮かんでいる足だけを切り取られたカエルたちの死体、殺した動物の血で誇らしげに手形をつくる子どもたち、陰部を晒して恥ずかしそうな顔をするように調教された芝居小屋の日本ザル。どれもぎょっとするけれど、特に芝居小屋の猿については、それを見て楽しむ人もいるんだろう。これだけ社会は目まぐるしく変化しているのだから、不必要な残酷さを孕む娯楽や食文化についても再考の必要があると思う。

  • イタリア人に、胸の前で手を合わせてお辞儀をされたことが、何回もある。嫌味なかんじではなく、本当にそれを日本の挨拶だと思ってやっている感じで、初めての時は少し面食らってしまったけれど、二度目からは普通に勘違いを指摘できるようになった。

    日本語のグーグル検索結果が日本語話者(その多くは日本人)のバイアスを反映しているように、イタリア語のグーグル検索結果はイタリア語話者(その多くはイタリア人)のバイアスを反映している。

    お辞儀の件も、’asian greeting’で検索すると、英語では検索最上位にウィキペディアのBowing(ただのお辞儀)の項目が上がっていて、画像も、ただのお辞儀から胸の前に手を合わせたタイプのお辞儀、さらには握手や片手をあげる仕草まで、さまざまな挨拶をするアジア系の人々の写真が出てくる。

    ところが、イタリア語で’saluto asiatico’で検索すると、最初に出てくるのは胸の前に手を合わせた挨拶の写真ばかりで、英語のそれとは全然違う。

    どこの国にも他国・他地域の文化や人柄に関するステレオタイプは存在しているけれど、地理的な距離のせいか、歴史的背景による文化への無関心のせいか、「アジア」のそれは、「ヨーロッパ」のそれよりずっといい加減だなあと思う。

  • When I told someone that I had a bad haircut, she said to me, ‘Ageotori shita ne.’ I did not know the word, so I looked up and found the following meaning:

    あげおとり【上劣】(名)元服して髪を上げて結った時に、姿、容貌にかわいらしさがなくなり、以前よりもかえって、劣ってみえること。(日本国語大辞典より)

    It says: Age-otori (noun): A noun to describe a situation when one looks less attractive than they used to be after tieing their hair for celebrating one’s coming of age.

    An example sentence on the dictionary was from Genji Monogatari, a novel written in around CE 1oo1-1014.

    All Japanese dictionaries that I can find online describe the word more or less in this way, although if you google it in Romaji, there are numerous websites which claim that the meaning is: ‘to look worse after a haircut’.

    It seems that the word was somehow exported, misunderstood, and then re-imported to Japan. A few website in Japanese, which translated some articles written in English into Japanese, also list the word as ‘a Japanese that Japanese people don’t know’ with the meaning ‘to look worse after a haircut’.

    Maybe someday, ‘ageotori’ will be on English dictionary with the distinct meaning like ‘nisei’ did.

  • Call Me By My (Real) Name

    Nupurという名前を持つインド系イギリス人の、名前とアイデンティティについての記事を読んだ。

    かいつまんで説明すると、このような内容だ:

    彼女はティーンエイジャーの頃に名前のせいで「自分だけ他の子と違う」という思いをさせられて、散々嫌な目にあった;イギリス風の名前の子どもが聞かれないようなこと(「どこから来たの」「変な名前!」「それはインドの名前、それとも…」「親はなにじん?」等)に答えねばならず、イギリスは母国であるにもかかわらずよそ者扱いされていると感じた。自分の名前が恥ずかしくて、Claireという名前を名乗ったこともあった。そうは言っても、親戚の使う言語は流暢に話せなかったし、サリよりジーンズを好んで着たので親戚に悪口を言われたりもした。どちらの文化にも完全には馴染めなかった。

    そしてのちに、西欧社会が「ふつう (normal)」として扱う特定の型があることに気がついた。色素の薄い肌や真っ直ぐな髪をもちたいと思っていたし、白人の友達の前でサリを着るのは恥ずかしかったし、そもそもこういうことに悩んでいること自体が恥ずかしかった。

    こういう時期を経て、今は、例え誰かが彼女を「本当のインド人じゃない (‘not Indian enough’)」と言おうとも、インド系の名前や文化に誇りを持っている。誰かが、そして自分自身が自分を抑圧していると気がついた時にやっと、自分を大切にできるようになった。私が抱いていた嫌悪は、一般的に「イギリス風」とされているもの以外の全てに紐づけられた「他者化」に条件づけられたものだった、と彼女は回想している。

    だが現在でも、そしてオックスフォードですら、彼女は過去の葛藤を拭い去れない。名前を聞かれるときは少し神経質になるし、相手の発音を正すという気まずさを避けるためNupurをイギリス風に発音されることには寛容になっている。Microsoft Wordは常に名前を自動訂正するし、メールアドレスや文末の署名にもかかわらず誤ったスペルでメールを送ってくる人もいる。こういうことが続くと、そこには許容できないレベルの軽率さがあると気がつく。つまり、それらは彼女の名前にはイギリスっぽい名前ほど価値がないのだと仄かしている。家族ぐるみの友人が彼女のことをミドルネームのビアンカで呼んで良いかと聞いてくるときに、それは彼女に取って明白になった。

    彼女は最後に、馴染みのない名前を見た時に正しい発音をする努力をすることが、彼女のような経験を持つ人が受け入れられていると感じる土壌を作るという。アーノルド・シュワルツネガーとかチャイコフスキーとかを発音したり書いたりできるのなら、どんな名前でも同じことができるはずなのだ。


    初めてイギリスへ来て、インド系イギリス人のラジという医学生と会った時、「なぜ彼の両親は彼に英語風の名前をつけなかったのか?私ならきっと英語風の名前にするだろう。」と思ったのをよく覚えている。非イギリス風の名前は就職などで不利になることがわかっているし、こどもは名前のせいでいじめられるかもしれないし、変わった名前を持つのは大変なことなのに、何故あえて祖国にちなんだ名前をつけるのか?それ以来、私は名前とアイデンティティについて考える機会が何度もあった。

    ある学生は、日本では「英語名」を持つのは一般的かと聞いてきた。英語名は中国や韓国の人が使っていることが多いけれど、日本ではそのままの名前を短縮する形でニックネームとする人が多い、と説明した。中国系オーストラリア人の知り合いにトーマスとアリスがいるが、このようにもともと本名に加えて英語名を持つような文化のある国の出身だと、子どもに英語名だけをつけることにあまり抵抗がないのかもしれない(*1)。彼女は続いて、「英語名を持つことをどう思うか?」と聞いてきた。

    私はこう答えた:英語名を持つことは、非西欧風の名前を持つ人を、名前を聞き取ってもらえない・覚えてもらえないというようなストレスから解放して、コミュニケーションを円滑にするかもしれないから、本人がやりたいならそうしたらいいと思う。でも、あらゆるものが西欧中心に回っている世界で、名前まで相手に合わせてしまう(そして英語話者もそれを期待する)のはおかしいと思う。英語名を持つことも持たないことも、いずれにしても不利益を被るのは非西欧風の名前を持つ人で、現状をどのように改善したら良いのかわからない。

    このエッセイを読んで、その一連の会話を思い出した。


    (*1) これまでたくさんの人にあったけれど、血縁的にゆかりのない言語/文化由来の名前をつけるのは、このように英語系の名前ばかりで、逆の人は一度もあったことがない。30年後、中国や中国語が国際的にもっと影響力を持てば、こどもに中国風の名前をつける非中国系の親もでてくるのかもしれない?

  • アメリカでAfrican AmericanのGeorge Floyd氏が警官に殺害されたことを契機として、世界各地でBlack Lives Matter (BLM)のデモが行われている。それに関連してしばしば、「人種などというものは存在しない」という立場の意見が散見されるようになった。

    人種は存在しない、という立場の人は、遺伝子レベルでは人種が存在しないことを理由とする。人間は「人種」にかかわらず遺伝子の大部分を共有しており、「人種」を規定するような特性(肌の色や髪の色など)は個人差が大きく、特定の「人種」全体だけに共通するような遺伝子は存在しないことが、研究で明らかになっている。また、人種の概念は社会や時代により変化する非常に流動的なものである。米国では黒人に該当する人でも、肌の色が薄ければ、南米やアジアでは白人と見なされそのように扱われる。このような理由から、上記リンク先の記事冒頭にあるように「人種は100%社会構成物である」という人もいて、そういう人は、「なぜ未だに『人種』のような時代遅れの用語を使うのか」という類の疑問を呈すなどしている。

    おそらく上記のような立場は社会学者に多い一方で、人種は存在するという立場は医者に多いのではないかと思う。医者は、診断学を通じて特定の人種と特定の疾患との結びつきを学ぶ。例えば、英国の診療ガイドラインでは、高血圧の患者さんが black Africanや African–Caribbean family origin の場合には、より強力な作用のある降圧薬を第一選択とする。特定のグループに強力な高血圧が必要であるというデータがある以上、人種という枠組みを取り払ってしまうのは、患者さんの利益にはならない。人種ごとに「傾向」があって、優先的に疑うべき病気・治療薬を変更すべきことがある以上、完全に「人種」の枠組みを取り払ってしまうのは、我々にとって不利益だと思う。

    人種差別主義者、人種を人間の本質と捉える人々に対抗する目的で「人種は100%社会構成物である」というのは効果的かもしれないが、完全に撤廃する必要はないと私は考えている。

    前にフェミニズムに関する記事でも書いたが、「女性」を明確に定義できない・線引きがむずかしいことは、その枠組みを無くしてしまう根拠にはならない。フェミニズムは一枚岩の思想ではなく、例えばトランスジェンダーの女性を女性に含めるかどうかで大きな論争があるが(私はトランスジェンダーの女性は女性だと思う)、それでも大まかに「女性」にカテゴライズされる人々に対する構造的差別をなくすのにフェミニズムは大きな役割を担ってきた。

    私は、「人種」にも同じ構造があると思う。英国では大学の入学願書や国営組織へのボランティア申し込み、病院の問診票などで、逐一、Ethnicity(日本語では「民族性」かもしれないが、尋ねられる内容は、記事下部写真のような「人種」に近い内容)について訊いてくる。アンケート集計の目的のみに利用されているようなのだが、こういう集計で明らかになる何らかの差異は、社会のありようの不正を反映していることが多く、社会を改善する上で参考になると思う。最近では、オックスフォード大学の新学部生の22%が英国出身のBAME (Black And Minority Ethnic) だという報告に大学のinclusiveな組織に変化しようとする意思が読みとれたし、COVID-19の死者数がBAMEで多いことは社会の構造的差別を反映しているとして大きな論争を読んだ。

    「人種」の概念が100%社会構成物であることそれ自体は、「人種」の概念をなくすことの必要条件ではないし、その概念をなくすことで生じる不利益・見えづらくなる不正義があることは、留意しなければならないと思う。


    上記テーマに関連して、社会構築(Social construction)について少し書いておきたい。

    (注)自分用メモを兼ねています。日本語でSocial Constructionについての本を読んだことがないので、訳が不正確な可能性があります。

    社会構築Fに関する立場は次のように分けられる:

    1. Fというものはない
    2. Fというものはあるが、Fは自然ではなく社会に起因する
    3. Fというものはあるが、Fは社会で何らかの状態に置かれることによる
    1. There is no such thing as being F.
    2. There is such a thing as being F but being F has social not natural causes.
    3. There is such a thing as being F but being F consists (in part) in being socially positioned in a certain way.

    フェミニズムに関して例えると、[1]の例としてはヒステリーが、[2]の例としては女性らしさが、[3]の例としては母親であること、が挙げられる。

    人種を例にとるなら、[1] →人種などないという立場。[2]→人種というものはあるが、人々は人種差を引き起こす要因について誤っている;人種は生物学的な特性(nature)によるのではなく社会との相互作用的なものである(*)、という立場。[3]→人種というものはあるが、人々は黒人/白人/アジア人etcであること、の構成要素について誤っている;つまり人種というのは特定の生物学的な特性によるのではなく、何らかの社会的な地位を獲得維持することによって規定されるという立場。

    [2][3]は、「科学的に人種という概念が存在しない」という事実と両立する。

    (more…)
  • *written a long time ago, the policy might have changed by now

    The Japanese government has decided to give a stipend of up to £1500 to all students in need except for those from abroad amid the coronavirus crisis. The decision has derided as discriminatory, but the government remains determined to give it to foreigners only if they are in dire need of money and their grades are extraordinary. According to a government official, the reason is that they want to support only those who will contribute to Japan in the future. 

    It is wrong to exclude international students from the support, as they suffer from the coronavirus crisis, too. Many Japanese students have lost their part-time jobs during the crisis, and so have international students. The difficulty they face is the same as Japanese students. Besides, it is unclear how their current academic performance will reflect their contribution to the country in the future, needless to say that the grading system is not uniform among universities (let alone deservingness for the stipend. Japanese universities have been struggling to attract international students due to the language barrier and the country’s declining economic and political presence in the world. These factors have been making Japanese universities less and less attractive in the world rankings, withmore and more students from many parts of the world choosing China instead of Japan. Looking at the situation carefully, they would notice that they should warmly welcome all students who have chosen Japan and treat them well, if what they have in mind is an investment for future, as each of them has a potential to contribute to Japan in many ways.

    Some say that international students should receive a stipend from their government. It is also common to hear that other countries, notoriously the UK, US and France, have charged international students significantly more than domestic students, and therefore that it is justifiable to discriminate international students as other countries do. It is true that somehow these countries charge international students more than domestic ones, but it has nothing to do with the allocation of the stipend under the coronavirus crisis. Those who suffer from the call for the state of the emergency live in Japan with a permit, and treating them differently from Japanese citizens solely based on nationality and grades seems an outright discrimination. The decision of allocation should be made based on the level of difficulty students confront, regardless of the country they are from, or their grades


    Things to consider:

    There are two questions here. The first is empirical – how likely is it that a given student will stay in Japan after their studies and make a positive contribution? The second is a moral one – should current stipendary support depend on predictions of future contributions to Japanese well being?

    Do you think any sort of partiality to co-nationaIs can be justified? Is there room for it in the context of a global pandemic?

  • 昨日書いたCecil Rhodes像の件で、今日の17時からRhodes Must FallのプロテストがHigh Streetで予定されているのに先立って、オックスフォードの市議会がこのような声明を出した。歴史を目撃しているような気持ちになる。

    参考:What can we do to support anti-racism in the UK?


    13/6/2020 追記:Uncomfortable Oxfordにこの件についての記事が掲載されていたのでリンクを貼っておきます。このプロジェクトがきっかけで私はセシルローズについて知りました。

  • ずっと前に書いたものが下書きに残っていた:

    自分の意見を発言するのはとても大変だ。いろいろな方向からその意見の妥当性を検討した上で、予想される反論への反論まで先回りして用意しておかなければならない。

    先日のセミナーは、平等主義の立場を取る哲学者(以降は「博士」と呼ぶ)の、人類の不平等の原因に関する研究についての発表だった。まどろっこしい言い方をしたが、簡単にいうと、例えば知能に人種差を見出すような研究が行われる/発表された時に、平等主義者はどのように反応すべきか、という内容だ。

    博士は平等主義者が直面する2つの問題として、政治的に同期づけられた疑似科学(現在の社会的階層を維持するための研究)、そして、研究に基づいて判明した差異についての結果が既存の差別的思想に基づき好ましくない解釈を経ること、を挙げた。

    それに対して、博士は次の2つの方法を提案した。それは、事実判断と価値判断を明確に区別して、科学的研究から価値判断を導かないこと、そして、科学と政治との棲み分けだ。

    あまりこの分野に明るくない私でも色々と深く質問したくなるほど納得のいかない内容だったので、やはり質疑応答では哲学者たちから鋭い質問が飛び交った。発表の内容をかなり端折ったので質疑の部分だけここに記してもよくわからないと思うが、全然納得のいかないプレゼンテーションに対する応答としての哲学者の慎重な言葉の選択とか話し方とかが、いつになく際立っていて、とても感慨深かったので、ちょっと記録しておこうと思った。

    • アカデミアにおける自由は絶対的価値ではないがかなりのプライオリティを占める概念である。平等主義もまた一種の政治的立場なのに、それを他の思想よりも上位に置く理由は何か。誰が好ましい思想と好ましくない思想を峻別するのか。

    これは私が真っ先に考えた質問だ。それをフォローする質問として、

    • 理想的な世界では実現できそうだが、現実世界でこれを実践すると、アカデミア(人文学分野および科学研究分野)で、何が好ましくて何が好ましくないのか、何が事実で何が価値なのかについての新たな文化戦争を生みそうだ。

    があった。これも質問の仕方と言葉の選び方がとてもよくて、こういう質問ができるようになりたいと思った。それから、

    • アカデミアへの言論弾圧の圧力は実際にそこかしこで起きている。思想を理由に大学教員を解雇するための署名活動や嘆願書などもこれまで何度も起きてきた。このセミナーで提案されたアクティヴィズムと既存のアクティヴィズムとは何が違うのか。
    • アカデミアの検閲については、哲学者が何百年にも渡って研究してきたことだけど、それについてはどう思うのか。検閲が憶測を呼んで新たな疑似科学をうむ・その支持者をうむこともよくあるけれど、それはどうするのか。

    一番最後になるけど、私が一番気に入った質問はこれ:

    • そもそもスライドの一番最初にあった前提を我々は受け入れる必要があるのだろうか。事実は必ずしも価値の上位にはない。我々の社会は事実よりも価値の方が重要だと決めることもできる(そしてそう決めたなら、事実がどのようなものであろうと、実社会における正義の運用には大きな影響はない)。その点についてはどう思うか。

    プレゼンテーションの内容に対する異議の表明の仕方ーどのような言葉で質問したり説明を促したりするかーにはセンスが問われると改めて思った。

  • George Floydの死に端を発したBlack Lives Matter (BLM)のデモが世界各地で行われている。英国もその例外ではない。そのデモ活動の最中、ブリストルでは、17世紀に奴隷貿易をしていたEdward Colstonの像が倒され、海に投げ捨てられた。それに応答して、オックスフォードでは、悪名高いCecil Rhodesの像を撤去するよう署名活動が始まった一方で、プレイマウスでは、像を守ろうとする人々が記念碑の前に集結した写真がツイッターで話題になった。

    歴史家のDavid Olusoga氏はBBCの取材に対して、記念碑は歴史の問題ではなく敬愛の問題であり、今回Edward Colstonの像が倒されたのは正しいことであったと述べている(以下の動画より)。また、氏はGuardianへの寄稿で、記念碑の破壊は歴史への攻撃ではなく歴史そのものであると述べている。


    Edward Colstonの話を目にした時に真っ先に私の頭に浮かんだのは、Cecil Rhodesの像だった。Cecil Rhodesは19世紀のビジネスマンで、植民地経営で莫大な富を得た(*1)。彼のこのイメージを、世界史の教科書で見た記憶がある人も多いだろう(私は自分が世界史の教科書でみた絵を今も覚えていることにびっくりしたし、現在住んでいる場所の歴史と彼につながりがあることにもはっとした)。

    彼は母校であるオックスフォードにも多額の寄付をした。Rhodes Scholarという優秀な海外の学生に与えられる奨学金制度は彼が立ち上げたものであり、今もその名は知れ渡っているし、High Streetに面するOriel Collegeの正面にある彼の像は今も道ゆく人を見下ろしている。

    奴隷貿易など現在の視点からは許しがたい行為で富と名声を築いた人間の記念碑の取り扱いについては、主に3つのやり方がある。

    一つ目は、撤去・処分すること。二つ目は、撤去してそれを博物館などに置くこと。そして三つ目は、そのままにして、その悪徳を説明するような看板を置くこと。

    Rhodesの像は一時期はその人物像について説明する紙がOriel Collegeの窓に貼ってあったようだが、ここ数年は(度重なる抗議にもかかわらず)それも外されていたようだ。

    しかしながら、数年にわたって活動してきたRhodes Must Fallの活動もそろそろ終焉を迎える時がきたと思う。Olusoga氏が述べるように、帝国主義者の像撤去は、歴史の否定ではなく歴史そのものなのであり、オックスフォードでも近いうちに、Rhodes像の撤去・処分、あるいは撤去・博物館に寄贈、の策が講じられるだろう。


    (*1) 13/6 追記:彼の時代にはすでに大英帝国で奴隷の所有が禁止されていたようなのでその記載を削除しました。セシル・ローズの像について知るきっかけになったツアーUncomfortable Oxford Projectがこの件について記事を書いていたのでリンクを貼っておきます。